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ワールドカフェ
無心、世阿弥の「似する」「似せぬ」「似得る」などから、私たちはどのように生きるのか、生きている課題の解決は、等、ワールドカフェではいつものようにテーブルを囲んでワイワイガヤガヤと刺激的なひと時を過ごしました。
[ 各グループのまとめ ]
●1第グループ 報告者 大西 信徳 (京都大学農学部3回生)
ぼくらの議論は、自然と生きること、それと幸福の観点も含めて考えてみました。 先ほどの図なんですが、多くの人は「似する」の部分にとどまっているわけです。 なぜかというと「似せぬ」の方に行くには、運とか大きなリスクとか関係してくるので、基本的には、この似するの部分にとどまっていて、サラリーマンとか、大概の人はここにとどまっている。 というのも、ここっていうのは、収入も安定していて、ある意味、幸福な部分であるかもしれないからです。
芸術家のような一部の人達は、ブレークスルーをするところまで求められるケースが多いので、必然的に、「似得る」を目指さなければいけない。 似するから似せぬにいくためには、運もあるし、知識を知恵にするということもあって、これも、なかなか難しいと思うんですけれども、そこから最後の似得るというところまで行くのはごくわずかな人。 ただ、ここに行くことが必ずしも幸福かというと、そうでもないわけで、生き方ということを考えるならば、別に、似するのところでもいいのではないか、っていう話をしました。
●第2グループ 報告者 鈴木 祥大 (京都大学経済学部3回生)
最初に出てきたのは、「無心」という言葉に対する違和感です。 まず、心を言葉に字としてあらわれ意識している時点で、無心という言葉にはちょっと遠いんではないか。
横谷 賢一郎 (京都大学経済学部3回生)
私、禅僧の墨蹟調査していますが、お坊さんが「無心」という墨蹟を書いて残したものを見たことは、いまだに一度もない。 お坊さんは、大概「無」とか「空」とか書きます。 「無心」って結構、禅的な響きのある言葉なんですけど、実は、お坊さんから見ても、かなり変な言葉とちがうかなあ。 実は無になれてない。 お坊さんが目指す、無とか空とかとは、かなり異質な…。 結構、心の認知の動きが残っている。 そういう点では、なり切れてないのが無心なのかな、と。
伊藤 献 (大阪大学博物館研究員)
少し補足しますと、まあ、瞑想とかやっていたこともありまして、実際、無心っていうのに、私もすごい違和感を覚えました。 で、先ほど、「空」っていう言葉が出たんですけど、空っていうのは、ただ見ているっていう感覚なんですね。 そこに、心はありません。 だから、そこの違いっていうのは、とても重要やないかという話がずーっと出ていました。
横谷
アールブリュットっていう分野がありますね。 知的障害者の方が表現する芸術分野ですが、あれこそが、無垢な感覚をダイレクトに表現していると専門家が言って、そういう芸術表現っていうことを、うたい文句にしているんですわ。 でも、私から見ると、アールブリュットっていうのは、典型的な「型の反復」。 もう、型以外の何物でもない。 無心やと思ったら大間違いです。 言ってみれば、一番、反復的な公務員のような仕事ですわ。 作風に全くブレがない。
鈴木
えー、そうこう、いろいろ話して、インドで修行された方の話から、宗教と経済というところに行きつきました。 資本主義のところで言うと、普通であるっていうことが、高度経済成長期はそれでよかった。 でも、低成長、人口減の今は、普通であることを追い求めてもしょうがない。 そして、民主主義というところの副作用と言っていいのか、自由、選択肢があるというところで、みんな迷いっていうのがでてくるのかな、と思います。 そして、その迷いを取り去るために出てきたのが、敵を作ることによって、選択肢が見えない中で選択肢を作っていこうっていうところがあると思いました。
最後、中村先生のお話で「忙しい」ということについてでした。 忙しいということに対する一般のイメージは、押し付けられていて、楽しいところがないっていうところがある。 でもそうではなく、中村先生は、まあ、豊かな生活に慣れ切っているところで、些細なことの中に、面白いことを見出すことによって、まあ、実質的にはやることもたくさんあり、それを一生懸命やることで、幸せっていうものが出てくるのではないかっていうことでした。
それから、スポーツに関しても、無心と「ゾーンに降りていく」ということ。 技術というものは必要不可欠っていうところで、一生懸命に練習をする中で、面白いことを見出しやり続けることで上達していくと、楽しむことができて、それが、ゾーンに入ることにつながるのではないか、と。
宗教で言うと、日本人は自然が好きで、これをよりどころにして、自然に感謝して、面白いところ、幸せを見出すことをやってきた。 この精神活動、スタイルが、技術、型を深め、無心というところで生きていけるんじゃないかなという話をしました。
●第3グループ 報告者 伊藤 早苗 (京都大学文学部3回生)
最初に、型には内的必然性があるよね、っていう話をしました。 私は、クラシックバレエと居合道とかやっているんですけども、型を教わることが多くて、型を考えていくと、、華道でもそうだと思うんですけども、合理性がすごいあるんですね。 型には、そうなるべくしてあるっていう、必然性ってのがあるっていう話になりました。
その後、学問に型はあるのかを話しました。 勉強と学問の違い。 中等教育では、型を押し付けるみたいな感じだと思うんですけども、学問にすると、型を無理やり押し付けるっていうことではなく、何か地道にやっている時でも、「降りてくる」感じっていうか、無心になる瞬間があるみたいな感じがあって、それがなんかブレークスルーっていうか、発見がある時だと。 そこに何か楽しさがあって、型ではなくて、何かその降りてくる感じのところに、楽しさも湧いてくる。
で、型にこだわることがどうなのかと考えた中で、先生は、型のないところでやって来て、回り道には回り道にしかない、いいところがあるってお話しになり、それで、型はなくてもいいんじゃないかなっていう感じで納めました。
荻野
中村さん、西平さん、最後に一言だけ、おっしゃりたいことがあればいかがでしょう。
中村 桂子 (JT生命誌研究館館長)
特にいうことはありませんが、ここ(レストラン)に降りてきたら、無心になって食べようと思っていたのに、無心について考えろと言う。 こりゃ、無心になれないわ、と思った次第です。(笑)
貴重なひと時で、面白かったです。
西平 直 (京都大学大学院教育学研究科教授)
いや、ありがとうございました。 無心っていうこと、無心の問題ってのは、ほんとに訳が分からなくなってくるんです。 底なし沼みたいでね。 それで、みんながそこに足を踏み入れてきて、おぼれていく姿が、いいぞ、いいぞ、と、うれしくなってきます。
ぼくの親は、「子どもの無心はかわいいね」っていうのを、よーく言っていたんですね。 そうすると、ぼくは、自分が大きくなっていくプロセスが、何て言うか、落ちていく、汚れていくプロセスっていうふうに感じてしまっていて、ずっと、それがこだわりなんです。 じゃあ、戻れるんだろうか、戻れないとすると、どうしたらいいんだろうか。 その意味で「無心」、むしろ「無」ですね。 その言葉に行くと、少なくとも、ぼくが学校で習ったような論理では、通用しないっていうか、全部ひっくり返されていくような…。 だから、例えば、学生たち、ないし、みなさま方が、こうやって、こういう蟻地獄に入ってきてくれる…これ、うれしいなあ、と。
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