第8回クオリアAGORA/~ゴリラから学んだこと~/活動データベースの詳細ページ/クオリア京都


 

 


文字サイズの変更

 


 

第8回クオリアAGORA/~ゴリラから学んだこと~


第8回クオリアAGORA/~ゴリラから学んだこと~の画像1
家族を取り巻く不幸な事件事故が相次ぎ、また家族崩壊が進んでいるといわれる昨今、ゴリラ研究の第一人者、京都大学の山極寿一教授がゴリラを通じて「家族」を語ります。

ディスカッサントには、障害児教育に取り組む花園大学の渡辺実教授、それに堀場製作所の堀場雅夫最高顧問、佛教大学の高田公理教授、同志社大学の山口栄一教授のレギュラーメンバーが加わり賑やかな討論となりました。

 


 

スピーチ

ディスカッション

ワールドカフェ

≪こちらのリンクよりプログラムごとのページへ移動できます≫

PDFをダウンロードして読む


第8回クオリアAGORA/家族の由来に関する誤解―ゴリラから学んだこと/日時:平成24年12月27日(木)16:30~20:00/場所:京都高度技術研究所10F/スピーカー:山極寿一(京都大学大学院理学研究科科長・教授)/【スピーチの概要】 長い間、人間の家族は文化の賜物だと考えられてきた。 しかし、最近は人間の社会性の根元に家族という不思議な組織があるのではないかと言われるようになった。 それはゴリラの社会と比べてみるとよくわかる。 人間の子どもはゴリラよりも重く生まれ、早く離乳し、遅く成長する。 この特徴は進化史の初期に人間の祖先がゴリラとは違う課題に直面したことを示唆している。 人間の脳が大きくなったのは、食物革命により脳を大きくするエネルギーが得られるようになったこと、増大する社会の複雑さに脳を使って対処する必要が生じたからである。 その結果、人間には強い共感能力と信頼を作るコミュニケーションが発達した。 しかし、今それはグローバル化とIT化によって危機に瀕している。 現代の人間に必要な社会の仕組みとは何か。 進化の原点に立ち返って考えてみたい。 /【略歴1952年、東京都生まれ。 京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科博士課程修了。 理学博士。 カリソケ研究センター客員研究員、(財)日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学霊長類研究所助手などを経て現職。 人類進化論を専攻、ゴリラを主たる研究対象として人類の起源を探り、「ゴリラ」「人類進化論―霊長類学からの展開」「家族進化論」など著書多数。 





 


※各表示画像はクリックすると拡大表示します。


スピーチ 「家族の由来に関する誤解~ゴリラから学んだこと~」



京都大学大学院理学研究科科長 山極 寿一氏


ゴリラの研究が専門なんですが、人間から一歩離れて、人間の社会を眺めることを長年してきました。 すると、そこに意外なことが見えてきた、というお話をきょうはさせていただきたいと思います。 


それは、家族なんですね。 家族というのは、おそらく当たり前のように人間社会の中に存在していて、とてもそれなしでは考えられないということをご経験だと思います。 また、家族は、人間に非常に特殊なもので、特殊なものであるからこそ、実は、近代が生み出した文化の産物だと考えられているフシもあるかと思います。 しかし、そうではない。 そうではないと考えると、やはり、家族の起源というのを古く遡って考えなくっちゃならないということになります。 


資料の「現代家族の諸問題」とタイトルをつけた図をご覧ください。 


現代家族の諸問題



最近は、家族の危機ということが非常によくいわれます。 その危機は、例えば図に書いておりますように、三つ四つに分類できるのではないか。 それは、▽社会経済環境▽結婚と離婚▽社会関係と教育、そして▽コミュニケーションで、その流れとしては▽少子高齢化▽グローバル化▽IT化などといわれたものに、どうも関係がありそうなんですね。 こうした危機というのは、家族という形態が、どうも、ひょっとすると現代の社会に合致しなくなっているんじゃないか。 じゃあ、家族って、そもそも何のためにあるのかということになってきます。 この図は、後のワールドカフェの時に、この図に立ち返って話し合っていただきたいとお見せしたわけです。 



人間にしか家族はない



先ほど、家族は人間にしか存在しない、ということをいいました。 確かに、例えば鳥はつがいで仲良くしているし、オオカミは夫婦で子育てをするし、サルだって、一見、人間の家族に似たようなものをつくっていることがあります。 ただ、そこに赤字で示しているように、人間の家族は生涯にわたって続きます。 鳥は、渡りの季節になるとペアを解消して集団になりますよね。 長く続く場合もありますが、基本的には子供を育てるためだけにペアになるんです。 それから、人間の場合には、家族が単独では存在しない。 複数の家族が集まって共同体を作る。 この点が人間の特色といえます。 その家族っていうのは、見返りを求めずに奉仕する集団。 子供のために命を厭わず、自分の財産がそっくりなくなっても構わない、それが家族では当たり前といわれている。


ところが、普通の組織というのはそういうわけにはいかないんですね。 共同体というのは、あることをしたら、それ相当のお返しが期待できなければ、存続しえません。 ということは、そのルールと家族の論理は一致しないわけで、それを同時に行うところに、人間の不思議さがある。 動物は、繁殖を中心に群れを作るか、シマウマのように、繁殖は二の次で集団を中心に作るかどちらかひとつで、この二つを組み合わせることは普通できていません。 人間は、これを組み合わせたところに面白さがあるわけです。 


それで、人間は、その由来をどういうふうに言われてきたかというと、人間は進化の英雄である、なんです。 どういうことかというと、つまり、この自然界を知能と道具によって征服してきた。 道具というのは「技術」であり、知能というのは「大きな頭」ですよね。 それによって、人間に都合のいい環境をつくりあげてきた。 で、そのそもそもの生業様式はハンティング=狩猟であると考えられたんです。 


つまり、人間は二足で立って歩いて、両手が自由になった。 その手で道具を作り、その道具を使って狩猟を始めた。 その狩猟には協力が必要であり、協力により効率良く獲物を得る手段を考えることで、さらに人間は知能を発達させ、協力できる集団をつくりあげた。 狩猟は男の仕事、育児は女に任せるという、家庭内、家庭外分業というものを始めて、家族というものをだんだんと精錬化させていき、そして武器を高度に発達させることによって、狩猟から人間同士の戦いに向けて戦争という行動を作り上げたというシナリオが、一般的だと言われてきたわけです。 



人類は狩猟者として進化した



例えば、みなさんもご覧になったと思いますが、1960年代(1968年)に製作されたスタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」も、このシナリオが描いてあります。 猿人が、ある宇宙からの物体に霊感を得て、キリンの大腿骨を道具にして狩りをすることをおぼえ、その同じ武器をですね、水場をめぐって争い合う集団間の戦争に応用したことによって、ある集団が別の集団を支配するという「支配・被支配」の社会をつくりあげたというシナリオです。 


これは、ある時までは人類の進化の事実として信じられてきた。 おそらく、ほとんどの人が、未だにこれを信じているかもしれません。 しかし、そうではないということが、最近わかってきました。 人類の歴史の中で、武器=道具を使って狩猟を始めたというのは、ずーっと最近になってからの話であって、はじめは直立二足歩行し、頭は類人猿並みの小さな脳という人間から始まって、それが長いこと続き500万年も経ってから、やっと石器が作られ始めます。 そして、その石器というのも、狩猟のためではなく、肉食獣が獲ってきた獲物を掠め取った後、その獲物の肉をこそげ取るためのものでした。 


そして、最近のトピックスですが、南アフリカで、棒の先に槍の穂先がついた50万年前の化石が見つかりました。 最古の槍です。 だから、槍を使って動物を狩ることですら、やっと50万年前になって起こったことなんです。 では、それまではどうしていたかというと、恐らく、長い間、道具を使わず、小動物を捕らえて食べていたんだろうと思います。 つまり、狩猟は人類進化の原動力ではなかった。 だから、あの「2001年宇宙の旅」は、嘘なんですね。 


そして、霊長類の例えば、サル、類人猿が群れをつくる理由っていったいなんでしょうと問われた時に、狩猟=ハンティングという回答を与える種はいません。 つまり、人間以外の霊長類のサル、類人猿は、300種類ぐらいいるわけですが、まず、メスが集まって、それにオスが加わることで群れができたと考えられる。 そして、メスが集まるその理由は何かというと、実は、「食べ物」と、そして「狩猟する」んじゃなくて、「狩猟されることを防ぐ」ためなんですね。 つまり、1頭でいるより2、3頭でいるほうが狙われる確率が少ないし、目がたくさんになるので発見効率が高くなり、警戒能力が増すというわけです。 これが基本になって、後は、社会内で起こったさまざまなオスとメスの軋轢というものが群れを作る理由になっていくわけですが、根本はここなんです。 「食べ物」と「食べられないため」の協力関係。 それが群れをつくる理由であって、獲物を獲るために群れをつくる理由なんてここには存在しないのです。 


じゃあ、一体、人間の家族というのはどういう社会から生まれたのか。 どういう背景で?どういう条件で?そして何のために?


という疑問が出てきます。 その時考えなければいけないのは、もし家族というものが生物学的な背景を持っているとしたら、そこには、系統的な、人間に近い、生物学的に近い動物の社会というものが参考になるだろうということです。 これも大きな誤解なんですが、ゴリラやオランウータン、チンパンジーは毛が生えてますから、サルと一緒だろうとお思いの方が多いと思います。 でも、これらはヒトの仲間なんです。 今は、ヒト科という中にヒトと一緒に分類されています。 遺伝子的にも、ヒトとゴリラ、オランウータン、チンパンジーというのはほとんど2%も違いませんから、非常に近いといっていい。 


そして、実は、ヒト以外の類人猿や、まあ、ほかの動物もみなそうなんですが、1日の最重要課題は何かというと、それは「食べる」こと。 しかも、食べ方にもいろいろある。 簡単に考えても、いつ、どこで、何を、誰と、どうやって食べるのか、が重要なんですね。 その中でも、誰と、というのが非常に重大な問題であることが、サルや類人猿の研究からわかってきました。 一人で食べるのは簡単です。 しかし、さっきいったように、一人では、食べ物を見つける効率が悪いし、探している時、捕食者に狙われやすい。 だから、誰かと食べなくちゃいけないわけです。 その誰と一緒に食べるのか、その誰を、どうやって選ぶのか、が社会をつくった理由なんですね。


これは、サルと、類人猿を入れたヒト科とでは大きく違う。 何故違うかというと、食べるということに関しての大きな違いがあるためです。 写真が出ていますが、今、2頭のサルが餌を前にして向かい合っています。 こっちをむいているサルが弱い方で、尻尾を上げている方が強いサルです。 自分より強いサルの前では決して食物に手を出さないというルールが、サルにはあります。 それは食物をめぐるトラブルを未然に防ぐというサル社会のルールで、これは群れをつくって暮らすサルではほとんど一致しています。 あらかじめ勝ち負けを決め、勝ったほうが食物を独占するというのは、負けた方はえらく不利益を被りそうですが、サルの食べものはほとんど植物です。 獲りにくい動物のえさと違い、ほかを探せばなんとかなるので、ここで遠慮してもいいわけです。 一緒に生活しているんだから、簡単なルールを決めて食べ物のことで争いをしないでおこうというサルの知恵なんですね。 



群れで暮らす霊長類は互いの優劣を認知している



ところが、類人猿はそうではない。 逆なんです。


チンパンジーの仲間にボノボというのがいます。 サトウキビを食べている強いボノボのところに、弱いボノボがわざわざやってきて、サトウキビをねだるんですね。 手を出して「頂戴」と。 ゴリラも同様で、子供が、美味しい木の皮を持っている大人のところにやってきて、頂戴というわけです。 その時、じっと顔を覗き込むんですね。 そうすると、食物を持っている大人、強い方が食べ物を手放す、あるいは譲るということが起こります。 人間は、どっちに属しているかというと、やはり類人猿の方に属しているはずです。 チンパンジーの場合は、まん中に肉を持っている大きなオスがいて、その周りを弱い、いや、本当は強いんですが…(笑い)、メスたちが取り囲んで肉をくれといっています。 結局、オスは断りきれず肉を分け与え、結果的に、この4頭のチンパンジーたちが、向かい合って同じものを食べるということになります。 われわれも始終やっていることです。 では、これはいったいどういうことにつながっているのかと考えると、面白いことがわかりました。 



類人猿の食物分配



1992年に、「ミラーニューロン」というものが、イタリアの研究チームによって発見されたのです。 鏡のように映し出す神経細胞という意味です。 アカゲザルというサルで調べられたのですが、ある行為をしているサルを見ているサルの、その脳の中を見ると、行為をしているサルの脳の中で発火しているのと同じところが発火している。 つまり、見ているサルは、行為をしているサルが鏡に映るように、同じことをやっている気分になっているということで、だからミラーなんです。 イヌ、サル、ヒトで音声を使って同じミラーニューロンの実験をしたのですが、イヌはほかのイヌが吠えているのを聞いても、脳の中で同じ部分が発火しない。 サルは少し、ヒトはほぼ同じ部分がすごく広く発火する。 これを「共感」と呼び、イヌにはほとんどなく、ヒトは共感能力が非常に高く、サルもちょっぴりそれがあるということになるんですね。 この共感は、どういうことかというと、他者が、自分とは違う同じ種の動物がやっていること、その感情がわかるということなんです。 ただ、これは道徳ということには直接結びつきません。 


逆に人間の場合、相手の心がわかれば、出し抜いてやろうとか、相手をいじめてやろうとか困らせてやろうとかという気持ちが生まれることがあるかもしれない。 が、人間は基本的に困っていれば困っている人の気持ちになって、助けようとするはずです。 これは人間社会の道徳です。 同情という感情です。 共感と同情は、そもそも違うんだけど、同情は共感が基になっていないと発達しない。 人間というのは、恐らくニホンザルとは違って、ゴリラ同様、共感という能力から出発して、その上に同情という感情をつくり上げた、と思うんですね



共感と同情



実は、共感を育むコミュニケーションというのはたくさんあります。 その中で、類人猿と人間で非常に共通しているところがある。 それは、「対面交渉」です。 人間と同じようにゴリラもよく対面しますが、ただ、その対面のしかたというのは、人間とでは違います。 ちょっと、このVTRを見てください。 ゴリラが知り合いのゴリラツアーのガイドのところへ挨拶に来ます。 どういうことをしたらゴリラは挨拶をした気になるか、そのへんを見てください。 向き合いましたね。 そしてじっと顔と顔を合わせないといけないんです。 数秒から数十秒顔を合わせないと、ゴリラは挨拶をした気にならない。 これ、私は不思議と思って、チンパンジーでもどうかと、観察してみましたが、実は、同じことをやってるんですね。 挨拶以外でも、いろんなところで顔を合わせる。 



ゴリラに独特な対面交渉



あれっ、これ人間も同じだなと思ったんですが、人間はちょっと違う。 あれだけ顔は近づけませんね。 あそこまでやると、ちょっと変な感じがします(笑い)。 少し離れるんですね。 机というものを介します。 なんで机を挟むかというと、食事したり会話するためではありません。 本来、これは、長時間、顔を合わせるためなんです。 会話は、非常に新しい技術、能力です。 その前に対面をするというコミュニケーションが人間にはあった。 話をするという時、ちょっと距離をおく必要がある。 というのも、類人猿と目が違う。 人間には白目をがあり、類人猿にはありません。 サルにもありません。 人間は、白目の動きを通して、相手の心の動きがつかめる。 心の動きをモニターし、そこから重要な情報を得ようとするんです。 そのために、対面をするのですが、これは近づき過ぎてもダメなんですね。 相手と程よい距離で目を見、表情を見て判断するわけです。 


われわれは、対面をし、言葉を使って情報交換をしているような気になっているかもしれないが、重要な情報は、実は言葉ではなく、対面した相手の目を通して得られるはずです。 これが、就職とかお見合い、商談など、大事な時には面接をするということにつながっているのです、相手の言っていることでなく、態度、顔、表情や目の動きから相手の性格をつかみ、評価をする。 この評価には、対面が絶対必要なんですね。 言葉だけでは評価できない。 われわれは、おそらくこういう古いコミュニケーションを未だに使って、人を選んでいるんだろうと思います。 


では、そういうコミュニケーションの形式というものは、どうして作り上げられたか。 次の図を見てください。 霊長類の系統樹です。 



共感は共同保育と食物の共有によって生れた



いろんな種類のサルがいて、近いものから順々につないであるのですが、一番下にヒトとチンパンジーとかいますね。 さっきもいいましたように、ここには、食物分配が見られます。 そして、この食物分配がもうひとつ見られる全然系統の離れた分類群として、南米に住んでいる小さなタマリン、マーモセットというサルがいます。 系統樹の真ん中あたりに出ていますが、この二つに共通することは、実は、他の霊長類と子育ての仕方が違うということなんですね。 「託児」、「運び」両用型の子育てをする。 「託児」は他に預けてしまい、「運び」は子供を背負って歩く。 一番上の方のサルは、巣を作り巣の中に入れるから「託児」としていますが、普通のサルは、ずっと母親が赤ちゃんを背中に背負ったりして子供を育て、託児をしません。 人間とタマリン、マーモセットだけは、ほかのサルやヒトに赤ちゃんを預けると言う共通性をもっています。 


タマリン、マーモセットは、生まれてすぐ赤ん坊をオスに預けますが、こういうサルに共通しているのは、多産という特徴があることです。 双子、三つ子が普通なので、とてもメスだけでは育てることができず、複数いるお父さんに預け、オスが代わりに育てる。 ここに食物分配が芽生えるというわけです。 乳離れするようになると、オスが子供に給餌をします。 


ところで、霊長類にはもう一つのタイプの託児の仕方があるのです。 


それは、私がずっと研究しているゴリラに見られます。 ゴリラは、生まれてすぐの赤ん坊には興味を示しませんが、離乳をするようになるとお母さんがお父さんに子どもを預けて、お父さんが育て始めます。 つまり、子育ての「バトンタッチ」が行われるのですね。 子どもはお母さんから離れ、お父さんにずっとついて歩くようになります。 こういう形式もあるんですね。 この二つのことが、人間にとって多分非常に重要だろうと思います。 


ちょっと、ゴリラのお父さんの子育ての様子を見てください。 ここで重要なことは、ゴリラとタマリンの違いというのはですね、タマリンのオスたちは、生まれた直後から赤ん坊を抱きます。 お母さんがたくさんの子どもを産むため、子育てをお母さんの代わりになって手伝うんです。 でも、ゴリラはそうではなく、子どもが乳離れをする頃に子育てをします。 お母さんとお父さんが一緒になって子育てはしないんですよね。 さっきもいったようにバトンタッチです。 これがタマリンと違うところです。 



ゴリラの子育て


子育てをするオスたち



そんなゴリラを見てますと、非常に面白い特徴がある。 赤ちゃんは生まれた時の体重は1・8㌔で非常に小さい。 それがオスは大人になると200㌔を超えますから、本当に小さく産まれて大きく育つんです。 しかも、3年間、お乳を吸います。 これは長いですよね、人間は1年ぐらいですから。 そして、お母さんが1年間、決して子どもを手離しません。 寝る時も、動く時も、食べる時も抱いたままです。 そんな赤ちゃんは、泣きません。 多分、泣くということと、お母さんが子どもを離すということとは強い関係があると思います。 さっきもいいましたが、そんなお母さんは、子どもが乳離れするようになると、それを促進するようにお父さんのところに行って子どもを預けるんです。 そして、お父さんは、子育てをお母さんのようにするのではなく、子ども同士がうまく遊べるように、その「仲裁者」、遊び相手になるんですね。 


このことで、私がゴリラからひとつヒントを得たことは、ゴリラでも、父親ってのはつくられるんだなということです。 


つまり、母親からまず、自分の子どもを預ける信頼できるパートナーとして選ばれ、子ども自身から自分の保護者として選ばれることで初めて父親としての役割を発揮できるわけです。 自分で、私は父親ですと宣言して子供に近づいても、母親、子供が信用してくれなかったら父親になれない。 これは人間でも同じなんじゃないでしょうか。 



父親はつくられる?



それで、この結果、面白い現象が起こっている。 これは、「ウエスターマーク効果」と呼ばれているもので、フィンランドの哲学者・社会学者であるエドワード・ウェスターマークが19世紀の終わりに提唱したんですが、子どもが幼いころに親しく付き合った異性には、大人になった時、性的関心をおぼえないというものです。 これ、提唱された後、ずっと1970年代まで黙殺されていたんです。 それが、どうやらサルにも同じような現象がある、と60年代から霊長類学者が言い始め、さらに、人間社会の中でも、イスラエルのキブツで一緒に育った子同士は、性的関心をおぼえないということがわかってきて、これでウエスターマーク効果が復活しました。 これは、いうならば家族というものの原型をつくるのにとても必要な感情領域だと思います。 というのは、家族というのは、あるひとつの組合せの異性にしか性的交渉は認められていません。 他の組合せには禁止されているのです。 ウエスターマークは、これについて、家族がまとまって一緒に子育てすることで、それは自然にできると予測したのですが、ウエスタマークを黙殺したフロイト一派は、親の制止、禁止が入らないとそれは成立しない、つまりエディプスコンプレックスといわれるものです。 明らかに基づくものは違うわけで、後で渡辺さんがおっしゃるかもしれませんが、今は、どうやら、ウエスターマークの方が正しいらしい、というのが一般的な見解のようです。 


これを私が重要視するのはですね、家族というのは、禁止されるものと独占されるものがあって初めて、平和に共存できるわけです。 例えば、息子が母親を異性の相手として、父親と争ったら、家族は存続できないですね。 しかし、これはサルでは起こるんです。 母親と息子を引き離して育ててしまうと、そういうことが起こります。 そして、もう一つ重要なことは、それは、育ての親であって、生みの親ではないということです。 アカゲザルで、ほかのメスに子どもを育てさせた実験の例がありますが、子どもは、生みの親には性的関心をいだき、育ての親にはいだかないということが結果として起こりました。 これは人間でもそうなんですね。 霊長類は、共通してそういう素地を持っています。 だから、子供にとって、育ての親が親であって、生みの親は親ではない。 感情面からいうとそういう話になります。 そのため、親子というのは、ある幼年期の密接なつながりというものがずーっと生涯、効果として生き続けるんだということが原則なんです。 これが人間社会をつくる基軸であり、家族というものを成立させる土台になっていると考えられます。 


では、こういうものを原資にしてですね、どうやって、人間は、動物ではできなかった「家族」と「共同体」というものの両立をなし得たのか、ということです。 


それは、おそらく、長い子ども期を通じた共同の子育てと、食を共にした(「共食」による)分かち合いの精神から生まれたんだろう。 つまり、子どもを家族の中に限定して育てなかった。 あるいは、食を通じて家族間のつながりを作った。 そんな人間の子どもはゴリラから見ると、不思議な特徴がいっぱいあります。 生まれた赤ちゃんはゴリラの2倍ほども大きい。 よく泣くし、また、よく笑う。 お母さんにつかまれないし、お乳は1年ぐらいで勝手に乳離れしますが、成長は遅い。 



ヒト科の進化系統樹



じゃあ、その不思議な人間の生物学的な背景を探るためには、ヒトに近い類人猿を見てみようというわけで、資料に、1千万年以内に分かれた類人猿の進化系統樹と生活史の比較も載せています。 生活史というのは、表の一番上に50年ちょっとの年齢がとってあり、生まれてから死ぬまで、その間にどういうスケジュールで成長や繁殖を経験するかを比較し、示したものです。 最近、人間以外の類人猿の長期調査によるデータが得られるようになって、この比較が可能になったのですが、すごく面白いことがわかってきました。 さっきいったように、人間は、お乳を吸っている時期が短い。 ただし、ほかの類人猿は、長く吸っていても吸い終わると、すぐに大人と同じものが食べられます。 そういう歯、永久歯を持つようになるわけなんですね。


ところが、人間の子供は、「六歳臼歯」といわれるように、6歳にならないと永久歯が生えてこないから、大人と同じものが食べられない。 これを、表に書いてあるように「子ども期」というんですが、そういう時期が3、4年あるわけですね。 これは、ほかの類人猿にはありません。 この時期は、人間の子供は、食の自立ができないから、上の世代が助けてやらないといけないんです。 それから、類人猿は、青年期になると繁殖に参加しますが、人間の場合は、繁殖能力が付いても繁殖をしない時期、できない時期が挟まれています。 これは、ほかの類人猿にはあまりない不思議です。 それと、もう一つ老年期が長い。 この三つの特徴が人間にはある。 これは、それぞれ独立して人類の進化史の中に現れたのではなく、組み合わされて現れたんじゃないかというのが、私の意見です。  つまり、それは、類人猿と同じように熱帯雨林に住んでいた人類の祖先が、安全な熱帯雨林を出て、危険な草原へと出た時に起こったことだと思います。 



ヒト上科の生活史



それで、これまで20種類以上の人類が世界に登場しているのですが、全てアフリカで生まれています。 アフリカからアジア、ヨーロッパへと進出していきました。 われわれ現代人は20万年前、アフリカで誕生し、アジア、ヨーロッパへと広がったんです。 人類は、古く700万年前にアフリカで誕生し、熱帯雨林からだんだん草原へと出て行くのですが、そこは、食料が分散しているし、逃げ込む木もないから、常に肉食獣に狙われ、幼児死亡率が急激に上昇したんですね。 この時、多産という能力が身に付いたはずです。 ある一定期間に何度も子どもを産むということで、多産になっていった。 それは、授乳期間を短くすれば可能になるんです。 お乳をやらなければ、次の妊娠が可能となり、そうすることで、出産間隔を縮めた。 人間は、こうして、一生の間にたくさん子どもを産むようになったわけです。 これが、人間が世界中にこれだけ満ちていった、最も大きな理由だと思われます。 人間は草原に出て、分散した食物と強力な捕食者への対応という、それぞれ解答が違う二つの課題に対処しなくちゃいけなくなった。 つまり人間は、ほかの動物ではできない家族と共同体を作るという難しい命題を、この時、課題として与えられたということなんだと思うんです。 


そもそも、草原に出て、二足で立って歩くことは、広い範囲を餌を探してゆっくり行くのに非常に重宝な歩行様式だった。 そして、もう一つ、それで、やはり手が自由になった。 でも、その手で、複雑な道具を作ったわけじゃない。 化石に全く残っていませんからね。 では何をしたかというと、ものを運ぶこと。 特に、高価な、高栄養な食物を、自分では探せない人たちに運んだのではないか。 この二つが、人類が二足歩行になった理由ではないかと最近考えられています。 



人類固有の生活史の秘密は直立二足歩行と大きな脳にある



それで、なぜ人類は、重い赤ちゃんを産むかということなんですが、人間の赤ちゃんは体脂肪率が15~25%ぐらいで、類人猿の5倍もあります。 実はそれは、大きな脳のためなんです。 人間の子どもの使命は、成長期に脳を大きくすることです。 だから、生まれて最初から栄養が滞ると、脳の成長が危機にさらされるので、脂肪を蓄えて、それが滞らないようバッファを作っていると考えられます。 人間の脳は3段階で発達します。 1年で2倍となり、5年で大人の脳の90%となり,12~16歳で大人の脳になるんですね。 ゴリラは、4歳で2倍になり、それで終わり。 500ccです。 人間の脳は、生まれた時はあまりゴリラと変わらないのに、3段階の発達で、大人になるとゴリラの8倍にもなります。 以上のように、人間の子どもがなかなか身体的に発達しないのは、脳の発達を優先するからなのです。 ところが、「思春期スパート」といって、人間は、脳の発達が完成する12歳から16歳ぐらいでエネルギーを身体に回せるようになり、一気に成長速度が加速します。 女の子は爆発的な繁殖力を獲得し、また、同時に、学習によって社会的能力を身に付けるんです。 


このように、ゆっくりとした身体の成長をするところに人間の子どもの特色があるんですが、これを完成させるためには、「共同保育」が必要になってくる。 多産ですから、お母さんだけでは育てられないのですね。 人間の赤ちゃんはその歴史を反映しています。 赤ちゃんがなぜあんなに泣くかというと、お母さんがすぐ託児してしまうからです。 いろんな人の手にわたって育てられるようになっているから、泣いて自己主張し、あるいは、にっこり笑って誰からも愛される存在になる必要があるんですね。 


これに関連して、「おばあちゃん仮説」というのがあります。 人間には閉経があるんですが、まだ健康なのに、わざわざ子どもを産まなくなって、そしてそれからも、長い期間生きる。 その間、何をしているかというと、次の世代の出産を助けたり、孫の生存価を高めたりするように振舞う。 これによって、人間の寿命が延びたという仮説なんです。 このことをサポートする説があるんですね。 一つは、現代の狩猟採集民を調べたもので、食料を与えられたらマイナス、与えるとプラスというネット生産量を年齢ごとに比較しています。 チンパンジーは、多少分配はしますが、ほとんど、プラスマイナスの振幅がありません。 ところが、狩猟採集民は、20歳まではたくさんもらって育つ。 しかし、自分で食物を得るようになると、その後の長い人生を使い、たくさん人に与えるようになり、お返しをする。 サルに比べると、プラマイとても大きな振幅を見せているんです。 もう一つは、認知能力のテストなんですが、人間の子供は20歳にかけて急速に能力が高まる。 その後、徐々に落ちていきますが、60歳を過ぎても体力に比べると、認知能力そんなに下がらない。 これが人間の社会の特徴であって、高齢に至るまで高い認知能力を使って人類の社会は築き上げられている。 つまり、「おばあちゃん仮説」など、老年期の世代というのは人間の社会にとって大きな貢献をしてきているということなんですね。 



おばあちゃん仮説



もう一つ、育児というのは、人間の音楽能力を向上させたのではないかという説があります。 


乳幼児はまだ言葉を理解しません。 泣き喚く乳幼児を黙らせるためには子守唄が必要です。 子守唄のトーンやピッチは、どの民族にも共通の特徴を持っていると言われていて、子供は絶対音階をもって生まれてきますので、話しかけられる言葉の意味ではなくて、そのピッチやトーンに反応して泣き止む。 だから、人間は、生まれながらにして子どもを泣き止ませるような話し方ができる。 それは、実は音楽の能力なんだということなんです。 そこから出発して、人間は、音楽を、大人同士のコミュニケーションに使い始めました。 なぜかというと、共感力を高めるために非常に有利だったんですね。 音楽は一緒に歌ったり、一緒に聞くことで、お互いの間にある境界を低くし、一体化するような感情を高め、そして、満足感や高揚感を得ることができるわけです。 これは社会の同一性につながり、これが、おそらく神という存在を作り出したのではないかと思います。 


こういった共感能力が発達することで、人間の子どもは類人猿の子どもとは全く違う能力、「憧れ」を持つようになります、つまり、将来なりたいと思う存在ができる、あるいは、素晴らしいと思える存在ができる。 ゴリラの子どもは、当たり前のように大人になっていきますが、何かになりたいとは思わないでしょう。 人間の子供は目標をつくります。 そして、他者に自分を見、想像します。 このことは、育児というものが、長く続くということに結びついている。 子どもがそんな憧れとか目標を持つものだから、そういう子供を知っている他者が、育児に関わり、子供をはさとし、導いてやる必要が出てくる。 つまり教育です。 人間は、とてもおせっかいなんですね。 望まれてもいないのに助けに行く。 そういう経験がおありだと思うんですが、そういうことを常にしている。 共感というものを超えて、共感力を過熱させてつくり出した同情です。 これがなければ、われわれが当たり前と思っている人間の社会は作れない。 



人間のもつ普遍的な社会性



人間の持っている普遍的な社会性というのは、次の三つだと思っています。 一つは、見返りのない奉仕をする。 これは、家族では当たり前だが、そこにとどまらない。 次は、互酬性、なにかしたらお返しが来る。 してもらったらお返しをする。 そして、三つめは帰属意識です。 自分がどこに所属しているか、これは一生持ち続けます。 逆説的ですが、帰属意識があるから、いろんな集団を渡り歩ける。 その時、常に、その所属を確認し、それを証明しなければいけないが、それはほかの動物にはできないことです。 サルは、とても利益を重んじた序列社会で、帰属意識もありません。 サルと違い、人間の帰属意識は、人間がきちんと付き合える基本になっていると思います。 



家族の崩壊は人間性の消失



では、家族の崩壊はどうしてもたらされたかというと、今まで私が話してきたその由来というものがおろそかにされ、経済的な理由や技術によって結果的に危機に落とし込められているというように思います。 一つはコミュニケーションの変容、それからIT化です。 対面的なコミュニケーションが失われた。 ということは、付き合う個人をいろんな形で評価せざるを得ない。 そして家族同士のつながりが薄れて、個人というものが重要になってきた。 少子化で、共同の子育てもなくなり、コミュニケーションとしてあったはずの「共食」が、だんだん「個食」になってきた。 そういう時代がきました。 


家族というものが人間性をつくってきたものだから、家族の崩壊は人間性の喪失なんだと思っています。 子育ては、経済化、機械化され、集団原理=互酬性というものが一番重んじられるようになってきています。 見返りを期待せずに何か奉仕するのは無駄、価値のないものと言われるようになっています。 これらのことは、実は、サルの世界に戻ることだと思います。 家族をなくして集団原理だけでやっていくことは、サルの優劣を重視した社会に移行することだと、今、私は思っているのです。 



ご静聴ありがとうございました。




≪山極教授スピーチの資料ダウンロード(PDF:5.86 MB )≫



次の「ディスカッション」へ進む ≫


 


 

前へ

次へ

 



前の画面に戻る


 

Tweet 


閲覧数:000693

 

 

facebook area

 

 


 

クオリア京都とは?

人間ひとりひとりの深く高質な感性(クオリア)に価値を置く社会、これは各人の異なる感性や創造性が光の波のように交錯する社会ともいえます。
京都からその実現を図ろうと、各種提言や調査、シンポジウムなどを開催した京都クオリア研究所ですが、2018年に解散したため、㈱ケイアソシエイツがその精神を受け継いで各種事業に取り組んでいくこととなりました。
クオリア社会実現に向けての行動を、この京都から起こしていきませんか?

 

京都クオリア塾

 


 

 
 

 

 

京都から挑戦する“新”21世紀づくり/クオリアAGORA

 


 

Get Adobe Reader


 



  Site Map