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ワールドカフェ
琳派発祥からおよそ400年の時を経て、言うなれば当時のそれは紛れもなく、所謂ブレイクスルーであったのではなかろうか? では何がそれを引き起こしたのか? それには、様々なアイデアが生まれる背景にはもちろん当時の時流があるのだが、源となったのは「光悦村」の存在が大きかったのではなかろうか。
では「現代の光悦村とは?」、「どうすれば作れる?」... これが今回のワールドカフェのテーマです。 各テーブルそれぞれの切り口から思い思いに多彩なアイデアが発表され、今年度最後にふさわしく大いに盛り上がったクオリアAGORAとなりました。
[ 各テーブルのまとめ ]
●第1テーブル 報告者
山本 勝晴(浄土宗西山深草派 僧侶)
うちのテーブルでは、まず、京都からつくる新しいデザインスクールを考えるということ、どうやって作るかということで話を始めました。 デザインスクールって、まず、何やという話になって、結局、人生を面白くするってことや。 面白いというのは何か。 学術、技術、芸術、スポーツ、ファッションetc…妄想。 妄想イコール文化だということです。 これを担っていくデザインスクールを「The University Of Kyoto」と言うと定義付けて、次に進みました。 それで、こういうものを作るには、箱と人材と財源が必要です。
まず、箱なんですが、最初に出たのは、京都には廃校になった小学校がいっぱいある。 これを活用するのがいいだろう、と。 そして、もう一つは寺です。 ただ、自分のことを考えてみると、お寺は個人の家になっているので難しい。 カレッジのように住み込みはちょっとね、ということで…。 あとは、公団。 新しいのではなく、昔ながらにあるものをうまく使うとカレッジのようなものになるのではないかという案が出てました。 (会場から、「仕事館を使えば」の声で)、あ、それいいですね。 京都府から借りてね。
次に、人材を考えました。 まず、大学の先生、これには話題を提供できる人という条件がつきます。 後、商売人。 売れるデザインをクリエートできる人。 また、デザイナー、なんですが、モノのデザインだけでなくコンセプトのデザインまでできる人。 そして、その人たちをつなぎ合わせる、トランスレートできる人。 こういう人たちが必要だねという事になり、これで、ここに金を落としたら、儲かるぞという企業が必ず出てくる。 そして、うまく絵を描けば、京都に、外国からも企業を引っ張ってこれるんじゃないかという話がありました。 で、まあ、これで財源も確保できるだろうし、こういうちっちゃいものをいろいろの場所にたくさん作って、ネットワークでつなげる。 これが、「The University Of Kyoto」と銘打ちたいと思うんですが、これが現代の「光悦村」ではないか。 この先は、高田先生に。
高田 公理(佛教大学社会学部教授)
ぼくは女子大の教師として、彼女ら女子大生と長い間、つきあってきました。 で、彼女たちが何かに「がんばる」には、3つの条件が必要だと気づかされました。 まずは「おもろい」、これが第一条件です。 二つめは「ちょっとええ格好ができる」、そして最後は「ちょっとお金が儲かる」――大儲けはできなくていいのですが、これら三つの条件が揃ったら、彼女らは動きます。 そういう舞台を京都が提供できないものですかねえ。 実現すると、たくさんの若者が集まってきて、賑わいもできるのと違うかなあ。 そうした仕組みを以前、「ザ・ユニバーシティ・オブ京都」と名づけて提案したことがあるのですが……。
●第2テーブル 報告者 井ノ上 哲史 (堀場製作所経営戦略本部)
うちのチームは、最初、日本人は、どうして、自分のアイデンティティーをしっかりもてないのかということから話を始めました。 人と同じことっていうのが正しい。 人と同じことっていうのが安心できるんだなあ、というところがある。 これっていうのは、どこからきているのかなあ、というと、うちの会社でもそうなんですが、先輩たちから手取り足取り教えてもらうんですね。 そのために、結局、自分のアイデアというものをクリエートできない。 じゃあ、どうすればいいかということで、出てきたのが、きょうの大西さんの話でありました、先人たちがやったことを再現してみること。 過去のデザインを真似てみる。 20年もかかって、ああ、こうやっていたのかということがわかってきて、そのプロセスの中で、アイデンティティーが確立し、自分の好きなことがクリエートできてくるのではないか。
で、そんな中で、デザインって何なの?機能だけ考えるのなら、デザインているのかなあ。 いやいや、デザインってすごく必要。 デザインって人を幸せにしてくれるよ、とか、あるいは、自分が実現したいことをイメージ出来ているのがデザインじゃないか等々議論が飛びまして。 そういう経過を経て、ビジョンというものをはっきり持てている人、最終目的を持てている人は強いよね、ということになりまして、それで、ビジョンというのは何かということにも広がり、自分の領域を持つ事が大事で、その時々の流行なんか関係ない。 自分のビジョンをしっかり持ち、自分の方向性を持っていたら、自分のやりたいこと、好きなことがはっきりしてくるんじゃないのかなあ等々。
それで、最終的に、デザインというのは、姿かたちを持ったアイデアっていうものを介してするコミュニケーションだろうと。 で、ぼくたちが何をしなければならないかというと、100年後に、「ああ、あの人いたよね」っていわれるようなものを創りたい、それがわれわれの目指すもんだなということで、最後には、「教育って大事だよね」ということで落ち着きました。
●第3テーブル
私たちのテーブルでは、「京都の未来のデザインスクールを考える」というテーマで話し合いました。 最初は、京都の美術館とか、京都の街全体の話をいたしまして、特に、美術館の運営について話し、その中で、京都の街全体を常設展示場にということになり、人脈だとか歴史を理解していけるような説明、案内をもっと増やす必要があるという話がでておりました。 で、そういったことの整理をした時に、それを楽しめる人だとか、理解、共感できる人を育てるということが必要不可欠になるので、こういった人を育てる場所としてあるのがデザインスクールではないかという話になりました。
そういう文脈で、未来のデザインスクールということを話し合ったわけですが、どういうものにするべきか、ということでは、例えば、何かをしようと思った人を後押しするようなネットワークだとか、構想を提供できるような場であったりだとか…。 一つのキーワード、何かをするだとか、何かをテーマにとかいう時に、他分野とか、分野横断的な場にしていくことが大事ではないか。 コンセプトとしては、高田さんチームでもでていましたが、大切なのは、毎日を楽しくっていうのを根本に、ライフデザイン、ま、デザインを考えていかなきゃいけないかな、と。 この時に、現行の美術大学の問題点も出ましたけど、それはちょっと、芸大卒としては割愛しまして…。
それから、そもそも、デザインは、という概念的な問題も話しました。 何かと何かを掛け合わせた時のきっかけとかになりうるのがデザインであるとか、ものを作る核もそうですし、ここでも光悦村、高田チームのテーブルと同じような話が出ておりました。
その後、デザインの「本質」という話になりまして、つまり、デザインの意味をみんなわかって使っているのかということになり、お互いわからないままデザインという言葉を使っているので、結局、何もデザインされないまま、何かがあった時、デザインという言葉で責任転嫁がおこる、都合のいい言葉になっているのではないか。 そういった、デザインに関しての問題提起が起こりまして、逃げ場となっている都合のいい言葉としてのデザインであってはいけないということで、その後、デザインは、意識と無意識を統合するようなものであり、まあ、ちょっと、何と説明したらいいのわからないんですけど、生命の本質といった、健康的な美とつながっていけるようなものを生み出せるデザインスクールを作ろう、というような感じで終わりました。
●第4テーブル 報告者 川角 育代 (若王子倶楽部左右)
このテーブルでは、デザインスクールについて、京都ならではのユニバーシティーとは何か、工芸とか、意匠だけではないデザインって何か、ということをコアに話しました。
日本は、近代化のために西欧から文化を移入してきたわけですけど、それって、日本ならではの受け入れる文化があるということなんです。 受け入れてかつ自分のものにできる力が私たちにはあるっていうこと。 それで、伝統文化なんですけれども、文化財として残すっていうことの他に、材料とか技術とか素材とかを、どんどん変えながら保っていくという話を最初にしました。 他の国では、絶対に変えたらアカンという感じで文化を残していくようなエリアもあるんだが、日本では変化してもいい、違ってもいい、違うからいいということを受け入れるということで文化が発展してきたという歴史があります。 つまり、伝統的にしてきたことを続けるっていうことと新しいことを受け入れて変わることは両立するというのが日本の技術と文化である。 それと、例えば着物でいうと、きょう、森口先生がおっしゃっていたように、使う人のことを考えて作る。 どのように使われるか、他者への慮りっていうことを考えて作るっていうのが、工芸の美質であると考えられる。
つまり、ものづくりのベースは人の幸せのための技術であるべきで、工芸は、誰かのためにつくることであり、それと変化をしてもいいという二つの側面がある。 その時、じゃあ、変わってもいいのだったら、伝統という言葉を使う必要はないのではないかという指摘がありました。 それに対して、材料とか素材が変わっても、例えば、芯や油を変えても、その日の明るさ火の質は変わらない。 その火が品質であり、その品質が伝統である、という説明がされました。
それで、その「品質」と、「人のためにつくる」という二つを考えていきました。 この人のためにつくるという人については、日本語には便利な言葉があり、それは「匠」という言葉です。 最近、テレビの「ビフォア・アフター」でも有名ですね。 誰かのために、だれかの幸せを考えてものをつくる工芸職人が匠。 これ、フランス語にもあって、「Métier d'Art」というらしいですが…。 使う人、使うシーンのことを慮ってものを作っていく、その技術は品位と美質を保ったもので、そういうスキルを持った人、つまり匠やそれを評価出来る人を育てることを目指すのが「デザインスクール」ではないか、と。 そういう結論になりました。
クオリアAGORA事務局
それぞれのテーブルから特徴のあるコメントが出ました。 有難うございました。 では、きょうスピーカーとしてきていただいたお三方から、感想を一言お願いします。
大西 清右衛門 (釜師 大西家十六代当主)
初めて来ましたが、こんな格好で毎月されているとは知りませんでした。 大きな刺激を受けました。 私たちものづくりしているものが、どう、この世の中に生かされていくのかな、というのは自己存在の問題になるんですけれども、勝手に、私は私の考えなりに、きょうも好き放題話をさせていただきました。 それで、異業種の方の中でいろいろ体験させていただき、刺激も受け、京都という中、異業種の存在の中で、自己存在をどうしていけるのかなというのが、これからの課題になってきたなあと感じました。
並木 誠士 (京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科教授 美術工芸資料館長)
初めて参りまして、とても、刺激的な時間を過ごすことができました。 最近の学生は、あまり自分の意見を出さないのが多いので、こういう形で、学生ともやってみようかと思いました。 お酒を飲むことはしませんけどね。 いいヒントになりました。 いろんな話題も出て、刺激的な話もできてとても充実した時間でした。
森口 邦彦 (染色作家)
ここに来て、先生たちの話を聞いていればいいと思っておりましたが、自分がお話をするハメになるとは思ってもいませんでした。 とてもいい加減な話だったと思いますけども、とりあえず、伝統工芸技術というのが、ぼくが始めたころは、まだ世の中の真ん中を歩いていたらよかったんですけども、今はマージンの端っこも端っこ、側溝の縁を歩いている有り様です。 で、やっぱり、日本が日本であり続けるために、もう1回ぼくらが、道のまん中歩かんでもええけれど、溝に落っこちそうにならんでもいいようにしたいと思います。
50年前にフランスに行ったという話をしましたけれど、昨年、ロンドンで友だちと小さい展覧会を開いて、そのついでに、パリに寄って、フランスへ行くのもこれでしまいかなあと思っていたんです。 ところが、とあるフランス財団からお客さんが来まして、その財団は、フランスのMétier d'Artといいますか、有形文化財とか技術を一生懸命保護しようとしている所で、そこが出している賞の審査員をしてくれということでした。 最後かなと思っていたパリにまた行こうとしています。
その財団の目的は、それぞれの国が育ててきた技術、文化財はその育んだ環境のみで活かそうとするんではなくて、国を超えて、それを育んだところ以外の所で見なおしたら、また新しい価値を生み出すのではないかということでした。 私、かくいう友禅染も今や、風前の灯ですけど、本来自由を求めて、自由に描き出すことのできる染め物の場としてできあがった友禅が、こんな形で命を終えるのは誠に残念ですし、フランスを通じ、また、日本人が自分たちが育て上げたものを大切に思うような機会を何か作れへんかなあと思って、もう少しがんばって見たいと思います。 また助けてください。
クオリアAGORA事務局
どうもありがとうございました。 京都はサロン文化がとっても華やかな時があったと思うんですが、今、それもちょっと元気がなくなってきています。 ASTEMのご協力もありまして、五山がみえるここで、いろんな方々が集まって、こういう形でクオリアAGORAをやってきております。 また、今年度も5月から、同様に展開してまいります。
それから、経産省から京大に出向されておりました横田さんが本省にお帰りになることになりました。 一言ご挨拶をしていただきます。
横田 真 (京都大学学際融合教育研究センター特任教授)
クオリアAGORAに参加させていただき、いろんな人とお知り合いになれよかったなあと思っております。 私は、経産省の技術系の技官という立場なんですけど、自分で実験するわけではなく、行政官としていろんなテクノロジーを使ったプロジェクトをやったりするのは、ある意味じゃあ、芸術家、プロデューサーに近い仕事だなという感じを持っていて、そういう思いでやってると案外うまく行くことも多いなと思っています。 それで、京大に来てですね、京大は、もっとプロデューサーが増えるべきだ、と、そう思って洛西センターで2年間働いてきました。 それで、離れるわけですけど、先日は、URA―学術研究司令室の人達がいるんですけども、その人たちに、「先生方の知恵を使うだけではなく、先生たちを活用して京大が何をできるかを見せることをやってくれ」という話をしました。 そういう思いの人たちもまた、教員ではないかもしれないけれども、京大とか、新しい京都を支える人たちではないかなと思っています。 そういう人たちが増えることを願って…、また京都に来たいと思います。
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