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ワールドカフェ
高度経済成長を経て、これまでのように弱者を受け入れるという社会が成り立ちにくくなった今、私たちが求める幸せな社会、安全で、自尊心が認められる社会をつくるためにどう変わらなければならないか、またそのためにはどういう制度、どういうシステムを作ったらいいのかについて、参加者全員で、食事をしながら、談論風発、意見を交わしました。
[ 各テーブルのまとめ ]
●第1テーブル 報告者
野田 旬太郎 (京都大学大学院思修館)
キーワードになるのが2つありまして、一つ目は仕事。 二つ目がメンタル制度(?)。 仕事っていうのは、精神障害の方が、自分を認められ、生きる自信を持つことで社会につながることができるという意味で重要である。 メンタル制度は、きょうのお話の中で出てきた「飲み屋のママ」とか、そういうふうな困ったときに相談ができる人が必要。 この仕事とメンタル制度に共通するのは、地域性を取り戻すということで、そこで出てきたのがお寺です。 お寺は、日本では、コンビニの数より多い7万寺もあり、地域に密着した存在であるということが重要です。 お坊さんは説法してくれたりですとか、メンタル面でも支えてくれる。 困った人にお寺を開放するなどして、人とお寺との関係を復活させる。 お寺を核にした地域性の復活というアイデアが出ました。
●第2テーブル 報告者 井藤 美由紀 (佛教大学・園田学園女子大学非常勤講師)
「豊かな社会を実現する地域包括ケア」というテーマで話し合いました。 最初に「自立と支援はセットである」という前提を確認しました。 問題は、一定のレベルに達するように支援し自立を促すわけですが、今、その目標とするレベルが高過ぎるのではないか、そのために落ちこぼれる人が多いのではないかということです。 たとえば、企業では2-6-2の法則といって、企業を牽引する頭脳は2割、企業目標を達成するために一生懸命に働く人が4割、役に立たたない人が2割、というようなことが言われてきたそうですが、今はIT化の進展で、その割合が変わったんじゃないか。 役に立たない2割から切られて行き、一生懸命働いてきた人達も脅かされ、首脳陣の相対的価値が上がって来ているんじゃないか。 そういうことが指摘されました。 また、京都というのは、昔からダブルスタンダードだった。 これまでの秩序を守りながら、常に新しくきた人を受け入れてきた文化がある。 そういう多様性を認めるということが、まず必要なんじゃないか。 自立できない者は排除するっていう文化が日本にあるとしたら、そこは見直さないといけないだろうという話が出ました。
しかし、障害とそうでないものの境はどこにあるのかと考え始めると、よくわからない。 ただ、今日のお話から、障害のある方の自立を助けるために仕事が必要なことはわかった。 では、企業として何ができるかという話になった時、「社会企業」(※社会的課題の解決のために市場メカニズムを活用する事業組織)を目指しておられる経営者の方から、大量生産、大量消費が必要でないもの、短期間で効率よく仕上げる必要のないものなら、十分納期までにゆとりをもたせて作業所に発注すると、安い値段で丁寧に仕上げてもらえるというアイデアが出されました。
池田 達哉 (サンスター財団健康推進室部長)
精神的な病気は、どうしたら治るかという話も出ました。 人間は、山極先生のゴリラに比べると、おせっかいな動物らしいですが、見ず知らずな人にも、もっとおせっかい、干渉をすべきではないかと思います。 それで、例えば、鬱病なんですが、農業や土いじりを1週間もすれば治ってしまうといいます。 信州とかで、そういうビジネスが既に立ち上がっています。 大手企業の管理職の人で心を病んだ人も、それで治る。 1次×2次×3次産業(1+2+3でもいいですが)=6次産業といいます。 こういうところを充実させていくと精神的な病いも治り、減っていくのではないか。
●第3テーブル 報告者 上田 源 (同志社大学学生)
そもそもケアとは何だろうな、ということを中心にうちのグループでは話しました。 高木先生のお話では、「その人の生きがい、希望が少しでも叶う生活、これがケアの本質だろう。 でも、ただ患者の希望や生きがい、何を求めているのか、またどうやってそれを見つけるのか、ここが非常に難しい。 しかし、例えばケアしてくれる職員さんに対して患者さんが羨ましいという感情を持ってもらえるようになると、この難題に対して少し光が差すことになるんだよ。 」ということでした。
そしてもうひとつの問題は全てを家族任せにしてしまっている現状です。 高木先生のところにいらっしゃるのは基本的に患者さんではなく家族の方がほとんどのようです。 で、家族と本人の問題がここで出てくる。 本人はもう成人し、自立できる年齢にも関わらず、やっぱり家族のケアにならなければいけない。 本人は自分の事は心配いらない、構ってくれるなという思いはあるのに、家族は手を離せない、そういうジレンマがあるようなんですね。 勝手に家族の手を離れて自分の着地点を患者さん自身が見つけていかなければならない。 ここが問題で、これを如何に社会制度としてどう作り上げていくか、ということが今後の課題であるというお話も高木先生からいただきました。
あと、認知症に関してのお話もしていただきました。 日本と英国の比較です。 日本の場合はまず医療機関でCTなんかをとって数値化してやっていく。 でも進んでいる数値化してもしょうがないということで患者さんの一人一人の立場に立つという全然違う方向でものを考えている。 日本はその英国のシステムにどうやって近づけていくか、というお話を伺いました。
●第4テーブル 報告者 李 善姫 (京都大学大学院思修館院生)
安全で豊かな社会のためにどのようなケアが必要か、という課題を中心に話し合いました。 今の社会が豊かではないという理由として、社会の中で「個人の尊厳」が認められていないということでした。 これを解決していくために二つの提案がありました。 ひとつは、障害者に対する皆様の関心を高めていくこと。 二つ目は、障害者の自立。
一つ目の障害者へ関心を持っていないということの例として、オリンピックで優勝した人は覚えていても、パラリンピックの優勝者のことはほとんど覚えていない、というのがあります。 パラリンピックの優勝って、これは、すごいことなんですけど、社会の関心が、今ひとつない。
二つ目は、障害者の人たちのために、仕事の場を用意するということが大切だということが指摘されました。 当然ビジネスとして成り立たないといけないのですが…。 それと、障害者のコミュニティーを作ったらどうかという提案も。 それぞれ違う障害を持った人たちが一緒に暮らし、それぞれが助け合い、コミュニティー全体の力を活かして、何か、ものづくりをしたりとかで社会に貢献することができるのではないか。 これに対しては、うまくいくためには、コミュニティー中で、障害者のリーダーとなる存在をつくることが不可欠という意見も出されました。 それから、こうした施設に、少子高齢化で余ってきている小学校などの校舎を活用して活動の場とすれば、社会に貢献できるのではないかという提案もありました。
●第5テーブル 報告者 鈴木 祥大 (京都大学学生)
はじめにケアということに関して、ケアされる方、ケアする方という立場を考えました。 ケアする方としては、ケアされる方について上から目線は禁物、という意見が出ました。 また実際に、ケアされる方が、何を望んでいるのか、そういうことがわかれば大きなヒントになるのではないかと考えます。 また、ケアされる方が、ほんとにケアを望んでいるのか、実際何を感じているのか、聞いてみないとわからないし、伝えられない事情があるかもしれません。
で、ケアする方、される方と、二つに分ける事ができるわけですが、実際には、その境界は、基準があるわけでもなく、すごく曖昧です。 例えば、目が悪いとします。 メガネをとると、全く周りが見えなくて、小さい字、黒板に書かれた字は見えません。 その場合でも、メガネがあれば、大丈夫で、自立することができます。 常にこのように、ケアする、される方というのは非常に曖昧で、基準があるわけではありません。 そこに、集団として多様性を持つことが重要です。 また、道徳とか倫理、ある程度の尺度も必要であると思います。
最近、地域ケアということがいわれますが、あまり地域、地域と限定して考えすぎるのもよくないのではないかという考えも出ました。 しかしながら、地域ケアとして何ができるかということについては、情報共有の場を提供することではないかという結論になりました。 実際に、身近な人が病気になった時どうするか、また、親が、高齢者となり認知症になった時、どうしていいかわからないと思います。 そういう時には、小さなコミュニティーで、いろいろな経験を共有できればいいのではないかと。
長谷川 和子 (京都クオリア研究所)
以上の報告をお聞きいただいて、高木さん、コメントを頂きたいのですが、いかがでしょうか
高木 俊介 (精神科医 ACT-K主宰)
ありがとうございました。 お酒も美味しくとても良かったです。 次回はぜひ、一乗寺ブリューワリーのビールを使っていただきたいと思います。
私の考えを、こんなにみなさんで考えて頂いて、とても感謝です。 心の病気をどうするか、というのは、これは、ほんとに簡単なことではないです。 私は、これ、作られた偏見だとはいうけども、人間の心の奥の中には、どうしようもなく、普通から外れてしまった人たちへの偏見というのが絶対あるんですね。 これは拭えないと思うんですね。 私たちが不幸なのは、その上に、さらに作られた偏見をいっぱい持ってて、それを、今の日本の制度が、固めちゃってるっていうことなんですね。 もしかしたら、心の病の人が最終的に解決することはないかもしれないけれども、こうやって、みなさんが、弱者とか障害者について考えていただけるというのが、恐らく、私たち自身のためになるんだろうなと、きょう、いろいろお話を聞いていて、そういう風に感じました。 どうも、ありがとうございました。
長谷川
ありがとうございました、開会の時にも申し上げましたが、このクオリアAGORAで、最初から大変お世話になりました山極寿一さんが、10月1日から、京都大学の総長になられます。 それで、この会でも、いろいろお世話になっております前の京都大学副学長で思修館教授を務められ、そして現在、滋賀医大の学長をされております塩田浩平さんから、山極さんに一言お願いいたします。
塩田 浩平 (滋賀医科大学学長)
山極さんには、クオリアAGORAの最初からディスカッサントをお願いしておりました。 その頃、ふっと冗談で、「次は、山極さんかな」なんていっておったのですが、それが、瓢箪から駒。 本当になってしまいました。 京大の良識が選んだのだと思っております。 私も長いことおりましたが、京大は、ご存知のように、大変なコミュニティーです。 右から左まで、白から黒まで、いっぱい集まった、日本でも最も多様な大学です。 それだけに、舵取りは難しいと思いますけど、面白いと思って、ぜひ頑張っていただきたいと思います。
まあ、人材は豊富だろうと思いますので、うまく使って頂いて、山極色を出して面白い大学にしていってほしいと思います。 それと、お忙しいとは思いますが、ぜひ、夕方ちょっと時間ができたら、クオリアAGORAにも顔を出していただきたい。
ま、ストレスはいっぱいあると思いますけど、ゴリラを相手にしていると思って、あまり気にせず、山極さんのペースで運営していっていただいたらいいのではないかと思います。 総長は、すべての人を満足させることはインポッシブルです。 それと、終わった時によくいわれるということを期待せずに、自分が楽しむというぐらいの気持ちで頑張っていただきたい。 ご健康に気を付けて頑張ってほしいと思います。
山極 寿一 (京都大学大学院理学研究科教授)
私は、近衛ロンドの卒業生で、総長になる前に、同じ卒業生の高木さんの講義を聞いて、とても幸せな気持ちがしています。 やはり、京都大学の自由な学風っていうのは、猛獣がいっぱいいて、いろんな意見が出てくるところから生まれてきていると思うんですね。 むしろ、そういうところで、総長をやるというのはとても幸せなことだと思います。 きょうも、堀場さんからいわれたのは、明るくておもろいから、ええと言われました。 それはね、高田さん、塩田さん、山口さんといった奇抜な発想をする人がいてくれるから、そういう雰囲気を保てるのだと思います。 そういう人たちを大事にするっていうことを、これからも続けていきたいと思います。
近衛ロンドから何年経ったかわかりませんけど、私が総長になる時に、クオリアAGORAという形で、再び息を吹き返した、というのは象徴的なことだと思います。 この会を是非続け、私もできるだけ参加をしたい。 自由な発想と創造的な試みをこの場からぜひ出していただきたい。 それが京都大学の財産、日本の財産になると思います。 期待しております。
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