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第9回クオリアAGORA_2015/ワールドカフェ



 


 

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ワールドカフェ

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ワールドカフェ


まだわからないことばかりという世の中、だからこそジャンルを超えた知の越境が大切という今回のクオリアAGORAですが、課題山積の今、課題解決の方策をどう導き出すか、そして科学の役割は、ということについて意見を交わしました。 


≪ワールドカフェとは?≫


[ 各グループのまとめ ]



●1第グループ 報告者  小林 香奈子 (京都大学理学部)


最初にテーマを絞ろうということで、今問題になっていることとして「貧困」「格差」を取り上げました。 これは、国内規模の問題もあれば、地球規模の問題もあるわけですが、ではどうすればいいかを考えた時に、今の社会では、一部の人に利益が集中していて、他の一部の人が苦しんでいるということを、全体として共有できていないということになっているのではないか。 でも、今の地球では経済が一つの国の中だけで完結していなくて、グローバルなものなので、その、お金の流れを血液、リンパの流れみたいに捉え、地球を一つの生命体のように考えることが必要。 つまり、例えば、人間が自分の手を切断してしまったら、一人の人間として痛みを感じるのですけど、今の地球は、一部のところに痛みを押し付けてしまうようになってしまっている。 それで、一部の痛みを共有して、全体として生き延びようとする「ガイヤ思想」に基づいて、地球という生命体というものをつくることはできないだろうかという提案がありました。 


それで、日本の思想には「三方よし」というのがあって、売り手と買い手、世間がウインウインの関係になるっていうものなんですが、これを日本から提案して世界に広めていけないだろうか、ということになりました。 


高田 公理 (佛教大学社会学部教授)


一言だけ付け加えます。 欧米社会で、選択肢に迷ったとき、彼らはコインを放り上げて裏か表かと、二者択一をやりますね。 それに対して日本にはジャンケンというのがある。 紙は石に勝ち、石ははさみに勝ち、はさみは紙に勝つ。 その動物編が虫拳で、ヘビはカエルをのみ、カエルはナメクジを食べ、ナメクジはヘビを脅かす。 つまり「三すくみの構造」があるわけです。 こうした彼我の違いを、拳遊びの盛んな祇園で見つけて比較研究したセップ・リンハルトというオーストリアの学者がいて、『拳の文化史』という立派な本を書いています。 そういえば近江商人の商売をめぐる「三方よし」という言葉もありますが、日本の「三すくみの文化」というのは、なかなか含蓄のあるものなんですね。 いずれにしろ「二つから一つを選ぶ」というのは、なんだかはしたないという気がします。 





●第2グループ 報告者  上田 源 (同志社大学文学部)


まず、ソニーの苦戦の状況について考えてみました。 昔、ソニーはいい会社だったから、いい人たちが、いっぱい入ってきました。 それでうまく回っていた。 それができなくなった今、どうするのか。 残っているのは、頭の硬い人たちばかりで、多様性というものも望むべくもない。 でも、ソニーは、リーダーがほしい、多様性ほしいという。 そこに、ものすごい内部矛盾が出ている、と。 


企業は、よく、リーダーを必要とするとか、ものを考える人たちがほしいっていう。 そして、それを若者に、多分、「お前たちがリーダーになれ」とか「何でそんなに向上心がないのだ」とか言ってくるんですが、これを育てたのはわれわれの親の世代ですし…。 なぜ、われわれは、マイナスのことを押し付けられ続けているんだろうか、と。 われわれの世代というのは、ある種、結構満たされている状態。 つまり、ほんとに食い扶持に困ることはないし、死ぬことも殆ど無いし、いわゆる社会保障制度も安定してきていて、つまり、宮台真司じゃないですけども、「終わりなき日常」であり、われわれは、まったり系の生活を常にし、生き続けていく。 最低には落ちないけども最高にはいけないっていう、このある種の非常に不均衡的な中でしか生きられないんですよね。 これが社会であり、こういう状態であれば、多様性なんてものはかなり終息に向かっていくと思っています。 で、その状態の中で、われわれにリーダーを求めるといわれているとしても、それはまた違う気がすごくしていて、余りに世代的にもそうだし、また、企業とわれわれ求められている人物の間に、何か、余りにも大きな考え方に乖離がある気がすごくしています。 まあ、これで議論が終わっちゃって、それのブレークスルーがないよねーって終わってしまいました。 


あ、そうだ、多様性のことですが、例えば議論している、あるいは、みんなで楽しくおしゃべりしている時、「そういえば」が思い出せるって言うことが、一つの多様性のありようではないかという考えが、大野先生から出されたんですが、この考え方を、どうやっていつくっていけるかどうか。 それが、教育なのかそれとも先天的なのか、このへんがわからないんですよね。 







●第3グループ 報告者  鈴木 祥大 (京都大学経済学部)


このテーブルでは、教育がテーマになりました。 大学教育につながったんですが、学生自らがお互いに学び合って、もがき合う。 もがき合うからこそ新しいものが生まれる。 教員は、そのもがき方というか勉強のやり方を教えるのが重要なのではないか。 教科書を読むのではなく、そこに書いてない行間を話すことで、学生がもがきやすい状況をつくるというのが重要ではないかということになりました。 高校の先生もいらっしゃったのですが、手先が不器用になっているとか今の高校生についてのお話がありましたが、高校では守らなければいけないルールがある。 実はルールというのは、「二つ解釈」というか、多くの人が同一視するものなんですけど、「倫理」という人間の遺伝子に刻み込まれているもの―生きるために必要な刻み込まれたもの-と、「規範」というか、資本主義的とか科学的とかいう考え方というものがごっちゃ混ぜになっている。 だから、今、日本の教育というのが変なものになっているのではないか。 このルールを、多様性を勘案しながら、しっかり区別して発信していくことが重要ではないかと考えました。 





●第4グループ 報告者  坪川 桂子 (京都大学大学院理学研究科)


まず、統合創造学っていうのが、なぜ、生まれる必要があるかを前提に、これまでの科学っていうのは、二項対立的に分けられてきたそれぞれの学問であり、その分ける過程自体も科学である。 でも、分けきれない境界のところに解決できない問題だったりというのがあるし、実は、分けきれない境界に現実の社会経済だったりという問題がある。 それを解決するためには、境界を取っ払ったり、自由にしたり、フレキジブルにしたりする必要があるんだというところから始まりました。 


じゃあ、どういう解決すべき問題がわれわれ人の社会の中にあるのかと見た時に、いろんなスケールが考えられる。 例えば、家族だったり、企業だったり、国だったり、と。 それで、例えば家族だと、相続の時にもめるとか、企業だとブラック企業が生まれたりする、国だったら戦争…。 で、この、それぞれの問題っていうのは、類似していて、例えば「格差」とか「思いやりの欠如」というのが共通している。 それぞれのスケールで、どうすれば「思いやり」を得られるかということなんですが、それが、境界を取っ払うっていうところで、要は、多様であることを受け入れる。 これをスタートにすれば思いやりも生まれてくるのではないか。 


それで、統合創造学っていうのは、最初に、境界を自由にするというところから始まったんですが、多様性を受け入れる、多様をどう受け入れられるかっていうことを、統合創造学自体が扱うことができるし、ゴールにもできる。 境界を取っ払うっていうところが必然でもあるし、ゴールにもできるんじゃないか。 えっと、こんなまとめでよかったでしょうか。 


村瀬 雅俊 (京都大学基礎物理学研究所准教授)


二者択一の言葉で表現するんじゃなくて、言葉自体に多様性をいれる。 そうすることで、実は、最初から多様性があるから多様なことが表現できるんじゃないか。 そういう学問の創成を狙いたいと考えているんです。 


高橋 淑子 (京都大学大学院理学研究科教授)


境界をなくすという話でしたが、今の聞いていて、境界が何故できているのかを考えることが重要でないかと思うんですけど。 


坪川


その話も出ました。 何故、その境界をつくらなきゃいけないのか、って話になった時、やっぱり、その、二項対立があって、善だ悪だという話になってきた時に、何が善で何が悪だよっていうように決めるのは大衆の意見。 多分、大衆の概念っていうのは、時代時代によって多分変わると思うんですけど…。 


高田


久しぶりにね、大衆っていう言葉が出てきてむちゃくちゃ面白いんです。 ようしゃべる大阪のおばちゃんが勝手なこと言うやないですか。 そこを出発点にして、モノを考えていくのが大事なんちゃうか。 日常、常識から始めるってことが大事やと。 これならむちゃくちゃ簡単や。 やっぱり、学問は、難しくすることで利権を確保してきたんやな。 これをひっくり返す。 わあ、過激やねえ。 









クオリアAGORA事務局


大野さん参加していただいていかがでしたか。 


大野 照文 (京都大学総合博物館館長・教授)


非常に楽しかったです。 この形式、美術館のコミュニケーターの人たちもよくやっていて「アート・コミュニケーション」っていってますね。 面白いでしょう、アートなんて絶対に答えなんてないはずなんやね。 でも、答えを出そうとしている人たちの考えていることは共有される。 答えは出ないけども、答えに向かってみんながいろいろ知恵を出して、考えたことを共有すると、これすばらしいことです。 それと、きょうの一番のわがままは、共有するどころか、勝手に、自分で、今の若者はおとなしいと決めつけましたが…。 まあ、いろいろな考えがあるんですね。 それを共有しながら考えていく。 


それと、きょうの会場(京都大学旧演習林事務所)のすばらしさ。 京都大学はすごいものを持っているんですね。 このように、実は、自分たちの足元にいっぱい宝物があるんです。 考えてみてください、博物館の宝物って、そのへんに落ちている石です。 そこに、自分たちが意味を込めることによって初めて価値が出る。 まず、足元の宝物をしっかり見据えて、積み重ねていくことによって世界が見えてくるんじゃないか。 博物館というのは、「超ブラック企業」ですけど、それをやっていくと何か見えてくると思って頑張っていこうと思っています。 有り難うございました。 





≪続きはWEBフォーラムで…≫

 

 


 

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人間ひとりひとりの深く高質な感性(クオリア)に価値を置く社会、これは各人の異なる感性や創造性が光の波のように交錯する社会ともいえます。
京都からその実現を図ろうと、各種提言や調査、シンポジウムなどを開催した京都クオリア研究所ですが、2018年に解散したため、㈱ケイアソシエイツがその精神を受け継いで各種事業に取り組んでいくこととなりました。
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