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長谷川 和子(京都クオリア研究所)
知を社会へとひらき社会と繋ぐ試みがあちこちで行われています。 第9回は、この知の越境の意味や可能性について考えてみたいと思います。 おふたりのスピーカーをお招きしました。 お一人は、京都大学総合博物館館長であり教授でいらっしゃいます、大野 照文さん。 ご専門は、層位学とか古生物学なのですが、博物館に移られてからは、教育の現場で子供たちに気付きの機会を与えていらっしゃいます。 これらの経験をもとに「間違いが教える生きる知恵」というテーマでお話をしていただきます。 もう一方は、京都大学基礎物理学研究所准教授で統合創造学創世プロジェクトリーダーの村瀬雅俊さん、「知の越境―知の統合・実践に向けて―」のテーマでスピーチしていただきます。 ちょっと難しいタイトルがついていますが、村瀬さんが、どこまで踏み込んで私たちにもわかるお話をしていただけるか楽しみにしております。
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スピーチ 「間違いが教える生きる知恵」
京都大学総合博物館館長・教授
大野 照文 氏
本人が間違いを犯しているので、「許してね」っていう言い訳みたいなお話しですが、お気楽にお聞きください。
今、ご紹介いただきましたように、私は化石を研究しています。 進化ということですね。 ところが、博物館に行きましてからは、ええぅと、大学の博物館って、なかなか経営が大変なんです。 大学では、学生を持っている組織は強いんです。 なぜかというと「人質」を持っているから。 「学生がおるじゃないか」といえば、予算もとりやすい。 だけど、「化石があるじゃないか」といっても、「そりゃよかったね」としか言われない。
さて、私の勤務する京都大学総合博物館の生い立ちを少し話しておきましょう。 京都大学が、陳列館に近い博物館をつくったのは1914年です。 101年前に、文系の先生方がつくられた。 これが大事なんです。 文系の人たちはちゃんと見通しがあるんです。 理系の人間はいい加減ですよね。 一生懸命研究するんです。 が、すぐフラッと次のテーマに移っていく。 はっと気がつくと、1980年代に、なんと200万点の学術標本資料が、主に廊下に積み上げてあった。 これをどうするかということで、みなさん方が考えて、博物館を作っていただいたわけです。 文系、理系が、別々に博物館という案もあったのですが、まとまったほうがいいということで、「総合博物館」という形で発足することになったわけです。
総合って、なかなかこれ、いんちき臭いんですけど、できて10数年経って、ようやく、文系、理系の先生方の間で、お互いに、「こいつら、全然考え方がちゃうで」ということがわかってきます。 これ面白いんですね。 例えば、恋人を好きになった時「あんたのことがわかりたい」。 別れる時何というかというと「あんたのことはもうわかった」。 つまり、相手のことが何かわからないというのは、すごい魅力なんですね。 博物館も今、そういう段階に来まして、20年近くかかってようやく、文系、理系、お互いにこれだけ多様性があるということを知った。 そこで、この多様性を生かした研究プロジェクトが生まれ始めています。 ところで、「生物多様性条約」はあって、動物の多様性は大事にされるのですが、意外や意外、人間多様性条約というのはない。 今は、世知辛い世の中になってきてはいますが、こういう時代だからこそ、とりわけ京都大学の「変人」達の多様性を大切にする気風をこれまで以上に守らなければいかん。 総合博物館は、人間の考え方の「多様性保護条約」創立のよりどころになるような活動をしてゆこうと私たちスタッフは考えて日夜がんばってます。
さて、博物館を維持管理していくっていうても、大学の同僚はなかなか味方になってくれません。 総論賛成だけで、各論ではダメです。 じゃあ、外に味方を作らないかん。 市民の皆さんですね。 特に、子どもさんは純粋で、私たちの努力をそのまま認めてくれる。 それにいずれ、大きくなるから、彼らにいろいろ教えておくことが大事で、主に、子どもさんに重点を置いて学びの楽しさを知ってもらうための様々な試みをしてきました。 きょうは、その中で、いろいろ蓄積してきた話をします。 私は、一応、古生物学者で、大昔の生きものを扱っている人間ですが、そういう大昔の生きものの研究から、突然ポンと飛んで、いわゆる「学習教室」を開いている時に、知恵の進化についてはっと気づいたことがあって、それを村瀬さんや村瀬さんの奥様とかに議論してもらう中で少し形になってきた話です。
で、「間違いが教える生きる知恵」というお話をいたします。 私たちは、多細胞動物です。 生命の歴史は、考え方はいろいろありますが、36億年は確実にあります。 地球ができて46億年。 私たちのような多細胞の生きものができたのは、化石の所見からすると5億4、5千万年前です。 その中で、結構、原始的な奴がいまして、この写真ですが、これが海底面を這いずりまわって、私の解釈ではエサをととった、摂餌をしていた跡です。 なぜそんなことがいえるかというと、同じ所を二度通らずに、平行に来て、ヘヤピンカーブ状に折り返している。 どうやら、この痕跡を残した動物は、同じ所を通っても餌はないので無駄である、とわかっていたらしい。 非常に知恵があるわけです。 だけど、平行な奇跡の間隔をもっと密にしたほうが良いのでは、と大学の先生はすぐに揚げ足取りをする。 「これ行間ありすぎるのちゃうか」と、ね。 もちろん、動物のほうではそんなことは百も承知で、数億年経つと、二枚目の写真のように、非常に密に這いまわって餌を摂るように知恵が進化する。 多分これは、餌の臭いとかケミカルな情報を基に行動が進化したものと思われる。 ただし、臭いを頼りにすると、平行線が密になるだけで数億年もかかる。 こんなにのんびりしたペースじゃ、われわれのような知恵をもった生き物が出現するにはいくら時間があっても足りない。
では、われわれのような知恵を持つ生き物が進化したのはなぜか、目の出現が動物の知恵の進化を促したとする説があります。 この写真、約5億年ほど昔のゴカイのような動物の化石の体色を復元したものですが、非常にきれいですね。 化石の色なんて、どう決めるんかという話でありますけれども、普通は、色は死んだら消えます。 けれど色の変わらないものもあります。 例えば、チョウの鱗粉です。 鱗粉の色は、色素で出してるのではありません。 顕微鏡でみると非常に細かい構造があって、そこに光があたって、ちょうど、CDROMのように輝く。 あれ、きらきら虹色を出すために色がついているのではなく、記録面に穴がいっぱいあって、そこに光があたって色が出る。 これは、構造色というものです。 どうやら、このゴカイに似た生き物も、チョウと同様に構造色で体を飾ってたらしい。 化石になる時にひしゃげて、今は綺麗な色は残っていない。 しかし、顕微鏡で微細な構造を調べて、それを元の形に戻してやって計算すると、これぐらい華やかな色を持っていたらしいことがわかる。
こんなに華やかなやつがいれば、これがオスならメスが、メスならオスが、ちょっとちょっかいかけようかという気になる。 一方、かけられたほうは、選択権があるから、気に入ればそれらしいメッセージを発するし、いやなら「あんたはええわ」っていう、そういうポーズを取るに違いない。 で、目があると目移りして、よりよい結婚相手を探そうと知恵比べが始まる。 しっかりした目を持った動物がそんなに古い時代にいたのかと思われるかも知れませんが、これがちゃんと居る。 5億年前ぐらいに栄えていた三葉虫という生き物は、大きな目を持ってます。 複眼で、小さなレンズが規則正しく並んでいます。 しかも、それぞれのレンズは、アクロマートレンズっていって、色収差のないすごい設計のレンズです。
一方で、しっかりした目をもっていろんな生き物をとって食べようとする動物も生まれてくる。 三葉虫の天敵とも言うべき、このアノマロカリスは、最大1.5m、口の周りには刺のある大きな「腕」があり、5億年前の最強の肉食動物でした。 しかし、食われる方も、ただ食われる訳にはいかないということで、三葉虫だけをとりあげても、ダンゴムシのように体を丸めて防備したり、トゲトゲになったり。 体は海底の砂や泥の中に潜って、目だけ海底面から出して回りを見回すような連中が現れる。 こうして、「見る・見られる」っていう関係、そこから派生する婚姻や捕食を巡る知恵比べが進化の速度を速めて、5億年の後に我々程度の知恵を持つ生きものが出現したわけです。
さて、私たち理系の人間はですね、しっかり観察すれば、「百聞一見に如かず」とばかり、真実が見えてくるはずと思っています。 ところが、私が最近好んでやっている市民向けの学習教室を通じて、必ずしもそうはいかないことがわかりました。 この学習プログラムでは、ハマグリの数をまず当て推量で言ってもらいます。 その後に貝殻の内側をしっかり観察・スケッチしてその数を当ててもらいます。 ここでもやってみましょうか。 ハマグリの貝柱の数はいくつですか。 誰でも知ってそうで、確実には言えない。 当て推量で結構です。 一つ、二つ、三つ…、分かれますね。 でも、観察すれば数は決められる筈ですよね。 このプログラムを京都大学生にやらせてみました。 当て推量では貝柱の数はバラバラになる。 観察した結果、何とそれでも、またバラバラ。 これが京都大学の学生の実態です。 「一見もしっくりシックリ行かず」そこで、次に、じゃあ、グループで対話をしましょうと。 対話をしますと、京大生の場合には意見が収束しまして、最終的に正しい答え、つまり2つにたどり着きました。
この貝柱の数を当てる学習教室、もう何年もやってます。 最初のうちは、正解の「2」に収束させるよう、一生懸命に誘導してたんですが、これだけ、みんな間違うんだから意味があると思い始めたころに、村瀬先生ご夫妻の話を聞いてハッと気がついた。 要するに、人間には「見れども見えず」ということがある。
貝は大きく成長しますから、貝柱も成長しながら大きくなるため、貝柱の付着していた場所には、細かい同心円状の筋ができている。 この筋をスケッチしている人、案外多いのですよ。 これを根拠にすれば、2つという答えにたどり着くのは簡単なのですが、実際には、スケッチには描かれているのに、それを意識してはみていない。 まさに、見れど見えずです。
それと、もう一つ陥りやすいのが、ないものを見る、つまり思い込みです。 ハマグリの殻の内側には、入水管、出水管を引き込むための筋肉を付着させる筋肉の跡が、半円状にある。 ただし、あくまで半円で、本当の貝柱の跡のように一周はしていない。 いないのに、思い込んでここにあるというふうに考える。 これが京大生の半分ぐらい。 観察してですよ。 この二つの間違いが頻繁に起こるため、多くの学生は貝柱の数を2つでは無く3つと答えてしまう。
さて、この「見落とし」と「思い込み」二つの間違いについて少し考察してゆきましょう。 まず、見落とし。 私は、スケッチでの見落としというのは、「手続き記憶」の落とし穴」と思う。 もう一つは、「思い込み」。
で、「手続き記憶」って何かというと、自転車に乗る時、いちいち、右を漕ぎ出して次は何なんて考えていたらひっくり返ってしまう。 そんなことは考えなくとも走れる。 人は進化の中で人は、このすばらしい能力を獲得したわけです。 スケッチもそれと同じで、鉛筆と紙があれば、目と手が連動して考えなくても描けてしまう。 けれども、科学的営みにおけるスケッチとは、本来しっかりと見て、見えたものの意味を考えながら紙に落とし込んでゆく作業のはずです。 京大生は、しかし、手続き記憶に頼って、頭で意味を考えずにスケッチしてしまう。 だから、見落としは、本来すばらしい能力であるはずの「手続き記憶」がもたらす落とし穴であります。
じゃあ、「思い込み」は何かというと、たぶんこれも私たちの祖先が野生の世界で獲得した、すばらしい生き残りの能力と関連している。 この図を見てください。 茂みの後ろに何かいますよね。 断片的にしか見えないものを補って「ライオン」と思い込む。 ここで、やばいと思ってさっさと逃げると生き残れる。 思い込んだものが本当にライオンであれば、まさに命拾い。 仮に、思い込んだものが茂みの後ろの「ライオン」に偶然似た倒木のシルエットであっても、息が切れてバカバカしいと思うかもしれないが、それでも命には別状はない。 つまり、ライオンが居ようが居まいが、「思い込み」は生き残りの可能性を100%近くにしてくれる。 一方、茂みの後ろにちらちら何かが見えるのに、何も考えずに無策な場合だと、ほんとに天敵がいたら万事休す、いなければ儲けもの。 結果として下手をすると生存率は50%近くに落ちてしまう。 だから、私たちの祖先が野生の世界で生きていた時代、「思い込み」は生き残りを保証する重要な能力だったはずです。 ただし、客観的にものを見なければならない場合にはしばしば邪魔になってしまう。
それで、見つけるか死ぬかなんですけども、見つければ興奮して逃げる、と。 「見つけた」って信号を出さなきゃならない。 アドレナリンとかドーパミンでも出す。 これと同じことが、実は、美しいものを見た時の興奮と同じですよってのが、私の大好きなラマチャンドラン先生。 この先生の風貌、どう見ても私と同類ですわ。 だけど、会ったことはない。 この人がいうには、茂みのうしろに天敵がおると思い込んだとき、びっくりすると生き残りの確率が高くなる。 そこで、生き残りの確率を高くするには、びっくりしたときに褒美を挙げればよい。 つまり、アドレナリンとかドーパミンとか出すことにする。 そうすると、見えるか見えないかすれすれのものをみると興奮するようになる。 これを応用すると、このちょっとスケスケの服を着た人を見た時に興奮するようになる。 考えると、ものを美しいと感じるというのは、すごく本能の深いところに根ざしたものなんですよ、という論理を提示されています。 私はそれを「生き残り」っていう解釈で見ているわけです。
それから、この図ですけど、直線が一点から放射状に何本も出ている。 そこに縦の直線を2本引く。 この日本の線、ちょうどウイスキーの樽の輪郭のように両方とも外へ膨らんで見えますね。 この2本の線、定規を当てるとまっすぐなことを確認できますよね。 しかし、本当はまっすぐだと言うことを確認した後でも、相変わらず2本の線は樽の輪郭のように外へ膨らんでいて、真っ直ぐには見えません。 それぐらい私たちの脳は、理性とはかけ離れたところで世界を認識しています。 だけど、なんで曲がって見えるのでしょうか。 ある研究者によれば、私たち走って行く時、周りの世界にあるものは、遠近法の消失点から放射状に飛んで行くようにみえる。 仮に前方に木の枝があるとしましょう。 通常の経路では、目から入った情報が脳で認識されるまでに0.1秒かかります。 人間は最大秒速数mで走りますから、もし、1m手前に何か障害物があるとすると、認識したときにはぶつかってしまう危険があります。 そこで、0.1秒後の世界を瞬時に描いて脳に見せる能力を私たちは進化させたようです。 ですから、放射状の直線に乗った2本の直線を見ると、私たちは全速力で走っているのだと脳は勘違いし、0.1秒後に直線のあるべき位置を計算して見てしまう。 見かけ上の移動が一番早いのが遠近法の消失点から一番近い距離にある場所なので、放射状の線の上に縦の線を2本引いた場合には、水平線沿いに直線が膨らみます。 また、この図形を90度回転させると、同じ理由で、今度は垂直線沿いに2本の直線が膨らみます。
というわけで、貝殻の貝柱の痕跡はいくつかという時に、観察とか百聞は一件に如かずとか偉そうに言いましたが、私達の祖先が進化の中で獲得してきた様々な生き残りのための適応が、逆に邪魔をして、「見れども見えず=見落とし」や「ないものを見る=思い込み」を引き起こしてしまいます。
これを防ぐ手立ては、対話であろうと私は考えています。 対話によって、見落としや思い込みを修正して行くと正解にたどり着くことができます。 まさに、「3人よれば文殊の知恵」です。 私は、対話ということに人類の未来を拓く大きな可能性があると考えています。 しかし、21世紀を迎えた今、世界中で対話不能な事態が生じているではないかと仰る皆さんも多くおられると思います。 対話の力に対する悲観論です。 しかし、人類の進化の歴史をひもといてみると、対話にはまだまだ可能性があることがわかります。
これ、すごくいい加減な図ですけども人類の技術と精神の進化を私がまとめた図です。 260万年前、オーストラロピテクスかどうかわからないが、われわれの先祖が石器を作り始めた。 そうして、ずっとテクノロジーが人類の進化を引っ張ってきたわけです。 で、16万年くらい前になって私達人類、つまりホモ・サピエンスの一番古い化石が、アフリカで見つかるようになります。 最初のホモ・サピエンスが化石になることは考えにくいので、人類はもう少し以前、ここではおおざっぱに20万年ぐらい前に出てきたことにしておきましょう。 さて、われわれは、今のような賢さで生まれたかというと、なかなかそうではなくて、例えば、好奇心とか美しいとか、死者をほんとの意味で慈しむっていうような、人類特有の精神活動の証拠というのは、意外と最近にならないと見つからない。
例えば着飾ったりするというのは、つまり、他人の存在を意識するとともに、相手に受けることを計算することが出来る高い能力を必要とします。 美しく見せるための顔料(オーカー)や装飾品に使われたと考えられる、小さな巻き貝に孔を開けたものがたくさん遺跡から出てくるのは、7万5千年ぐらい、ざっくりいって10万年ぐらい前のことです。 いずれも、南アフリカの遺跡から見つかります。 それから、科学の始まりを告げるものが約1万5000年前のフランスの遺跡から出土しています。 それは、三葉虫の化石なんですが、穴が二つ開いていて、ペンダントトップになっています。 重要なのは、その近くの場所から、これは木炭を彫って作った甲虫のペンダントトップが見つかります。 「頭、胸、尾」が彫ってあり、同じように穴が開いています。 この図を出した著者は、要するに、三葉虫という大昔の生きものが、カブトムシと同じ節足動物の仲間だということを何となくわかっていたのではないかと考えている。 これが科学や好奇心の存在をそれなりに示唆する最古の証拠、ようやく1万5000年前のことです。
それから、死者を埋葬して花束を入れる風習。 確実なのは、花の化石が一緒に埋葬されている1万2000年前の遺跡が最古ということになる。 ネアンデルタール人の墓からも、花の花粉が出てきます。 だけど、花粉がどこから飛んできたということも考えられるので、確実とは言えません。
対話というのは、高度な精神活動によって物事を抽象的に扱うことができる能力なしには成り立ちません。 そのような能力を示唆する証拠は、装身具など古いものでもせいぜい10万年ほど前からしか見つかりません。 だから、私たちが今やっているような精神的な活動というのは、わずか十万年、あるいはもっと後の数万年前になってようやく獲得したものである可能性が高いのです。 ここで、初めて対話という能力が人類に芽生えたのでは内でしょうか。 地球の歴史からすると、数万年というのはごく僅かです。 我々には対話の能力がないんじゃなくて、あるいは、対話が無力なのではなくて、われわれは、それを獲得したばかりなのであると言えるのではないかと私は考えます。 そして、いよいよこれから右肩上がりで対話能力が向上していくんだから安心しなさいと。 あと1万年ぐらいしたら、お互いに対話によっていろいろな問題も解決するようになるだろう、というのが私のお話の結論であります。
長谷川
大野さんありがとうございました。 まあ、人生80年とか言いますが、お話では、何万年という地球のスケールが出てきて、やっぱり、あんまり人間的な短いタームで物事考えたらいかんのやなということを、強く感じました。 では、引き続き、村瀬さんにスピーチをお願いいたします。
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スピーチ 「知の越境―知の統合・知の実践に向けて―」
京都大学基礎物理学研究所准教授
統合創造学創世プロジェクトリーダー
村瀬 雅俊 氏
「知の統合・知の実践」、これ、高田さんがよくおっしゃっている、「知の主体化が大事だ」ということにもつながるんですが、知はまさに統合も大事ですけれど、統合しながら実践できているかどうかが大事だと考えております。
この図は、「ハリケーン・カトリーナ」がアメリカを襲ったことによって、二つの全然違うことが時間スケールも変わって起こることを示しています。
一つは、カトリーナが襲って水浸しになったために、殆どの人が身分証すらなくなった。 もちろん、預金通帳も失われました。 そこで、ハンコック銀行、ミシシッピーのガルフポートというところに本店のある老舗銀行ですが、何をしたかというと、創立の理念に立ちもどった。 どういう理念かというと、「利益は無視しよう、この際、お金儲けは考えない」。 その辺に散らばっているお金を集めて来て、乾かしてアイロンをかけて、一人200ドル、その場で、名前と住所を書きさえすれば、身分証明書無しで貸し付けたんです。 その額は4万何千ドルになりましたが、3年以内にその99・5%が回収され、しかも、その数カ月後に何が起こったかというと、実に、1万3千件新規口座が開設されて、預金残高が15億ドル増加したんです。
彼らは、こういう結果を最初から目標にしてやったわけではない。 2次的にというか、おまけとしてこういうことになってしまった。 大事なことは、「ハート―思いやり」を出したおかげで、このことが起こってしまったわけです。 で、こういう臨機応変なことができることを、未来学者のアルビン・トフラーは「アドホクラシ―」という言葉を使って表現しています。 ジャズでいう即興演奏みたいなものです。
もう一方で、カトリーナが襲って何が起こったか。 何と、ミシシッピーから1千マイルも離れたメキシコで、しかも1年以上経ってからトルティーヤ騒動が起こった。 トルティーヤというのは、トウモロコシを主原料に作られるメキシコの主食なんですが、その主食用のトウモロコシがなくなった。 メキシコでは、石油生産地が数千カ所稼働できなくなった時から、バイオエタノールの生産にトウモロコシがどんどん使われていて、1万年もトウモロコシを作り続けてきたメキシコなのに、ここ数年は、アメリカから主食用のトウモロコシを輸入せざるを得なくなっていたのです。 この状況で、カトリーナがアメリカを襲ったために、これが止まり、トウモロコシが不足して大騒動になった。
この二つのエピソードで大事なことは、一つの原因によって、違うことが起こる。 明るいことと暗いこと、しかも時間スケールのまったく違う予測できないことが起こってしまう。 これは、起こるべくして起こっていることなんです。 このことをいかに展開していくか。
今までの従来型の客観科学では、主体と客体があって、それをどう見極めるか。 その違いが、科学だったり、芸術だったり、あるいは細分化された科学になるんですが、矛盾がないというのが大前提。 あるいは、方法論は、主体が対象を見る方法は、「帰納」だったり「演繹」だったり、あるいは「類推」だったり、固定した方法でものを見る。 そして、同じこと、同じ刺激であれば同じ反応が起こるという前提ですね。 まあ、こういう前提で、自然科学は発展してきているんですが、これでは、さっきのカトリーナが引き起こした別個の二つの状況は、まったく説明できない。
で、今、「統合創造学」というものをつくりながら何をやろうとしているかというと、今までの科学が捉えきれなかったことを、捉えられるような科学、あるいは学問を創りましょうっていうことなんです。 一言でいうと「生命である主体が、生命を方法論として用いて、生命を理解する」ってことです。 これまでの科学は、人間が何かの方法論を用いて、対象、物質でもいいし宇宙でもいい、を理解しようとする。 でも、生命を理解しよう、あるいは巨大な社会を理解しようとする時は、生命が生命を利用して、生命を、これ、非常に禅問答的ですが、方法論も生命的でないといけない。 だから、なんかこういうゴチャっとした、これ、一言でいうと曼荼羅なんですが、そういう何かゴチャっとしたものでゴチャっとしたものを理解していく方法論が必要です。 主体と客体は分離不可能ですし、矛盾性もいっぱいありますし、方法論は、まさに生命原理を使う必要があるし、再現性ではなくて歴史性、生命であるから常に学習し発展し、進化し、あるいは病気になるっていうこと全部が含まれるような理解の仕方を考えていく必要があるということです。
それで、そういう方法論があるかと思って調べてみたら、何とあったんですね。 今から2千年前の中国の戦国時代を研究した歴史家を研究したフランス人の研究者フランソワ・ジュリアンの著作(邦題「勢(いきおい) 効力の歴史」)。 何と西洋人が、中国の歴史思想にすごく興味を持つというのは、ものすごい大転換だと思います。 彼はこういうことを言っています。 「西洋科学は、主体と客体、構造と運動、あるいは内面と外面という二項対立を基盤とする。 主体と客体が違うから、客観的記述ができる。 それで、現実を明らかにするけれども、単純化をし過ぎてしまうきらいがある。 西洋の論理の枠組みでは決して捉えられない世界がある」―つまり、こういう単純化した論理で世界を見ていてわかったつもりになっているんだけど、それで抜け落ちている世界があることを認識する必要がある。 そういう世界は、対立する二項の間にあって、論理的な矛盾に陥るがゆえに、ほとんど考えることすらできないというわけです。
彼のいう「勢」。 中国の思想に出てくる「勢」っていうのは、さっき言いました「グジャグジャっとしたもの」。 それをいっているのですが、「静止している状態」と「運動している状態」―ま、「実在」と「プロセス」というのを、西洋人は、普通分けて考えるんですが、彼は、これを「ゴチャ」っと取り扱いましょうという。 そうすると、あらゆる状況が、同時に把握できるんじゃないかという期待からです。
何でこういうことが必要だったかというと、戦時中は、生きるか死ぬか。 今の科学者は、余り、命かけて学問をしていません。 だけど、戦時中は生きるか死ぬかなので、本気の学問ですね。 で、そういう時に、戦う前に勝たなくちゃいけない。 軍隊の配置そのものをどうしたかで、その後の結果が、もう決まるんですね。 それが面白いことに、書の文字、あれもパターンの羅列です。 それが勢いになる。 描かれた風景、あるいは、文学の場合は文字列ですね。 どういう文字列を並べるかで、文章としての命が吹き込まれるかどうかが決まるという。 全部、統一して理解できるって、これすごいと思いませんか。
全て、形状の中に働く勢い「潜勢力」という主題としてとらえ直すことができるんじゃないか。 これは、まったく個別の現象を扱いながらも、統一理論ができるということなんです。 これが、ものすごく大事なことで、西洋の哲学では、戦争なんて予見できない。 偶然が支配するっていう見方。 でも、中国の思想はそうじゃないんです。 戦争の展開は純粋に内的な必然による、と言うんです。 中国思想の独自性ってのは、現実をそれ自身から、つまり、そのものの中から次に何が起こるか決まってくる。 だから、結果は、最初にどう布陣するかで決まってしまうのであって、完全に100%予言可能だという。 軍師にとっての勝利とは、自分にとって有利になるように生じさせた不均衡から導かれている必然の結果であり、予見できる。 ほんとうに良い戦略は、気付かれずに、普通の人にはその行為すら目に見えない。 西洋の科学は、目に見えるものを、捉えよう、捉えようとしているんだけども、そういう見方を真っ向から否定しようとしているわけですが、その否定された世界に、真理が実はある。
そういう軍師は、次に来る出来事の推移を、行為を効果的に支配できるため、誰も戦おうという思いがなくなるんですね。 相手の戦う気力を失せさせてしまう。 だから、戦わずに勝ってしまう。 敵軍の数がどれだけ多いかは問題じゃないということです。 これ映画(「レッドクリフ」)にもなっていますが、80万人の敵軍に対して5万人の味方が圧倒して勝つんですよ。 それは、気象状況も全部含めて、つぶさに軍師諸葛孔明が見抜いて、時を選んで、それで勝っちゃうんですね。 勝利する軍隊は、既に勝利してから戦う。 敗北する軍隊は、戦いがはじまってから 慌てて戦いに勝とうとする。 これ、学問でも人生でも全て言えることではないか。
ふと、視点を変えると、マイケル・ポランニーが「暗黙知の理論」っていうのを提唱しているんですが、ここと、先ほどの「勢」の力学あるいは理論との共通性が見えてきます。 要するに、「明示的なもの」を羅列して、それでなにか伝えようと思っても、それは無理ですよ、と。 だから、大学で、教師が学生に何か伝えたいことを伝えようとしても、伝わるはずがないんですね。 じゃあ、何をやればいいか。 実践、あるいは実物。 えっと、学問が大事、あるいは統合することが大事といいながら、統合できない人がしゃべっても統合できるはずがないので、だから、ぼくは、頭の中で考えていることを実践でやろうとしていて、いろんな部局とコミュニケーションしながら、後でお話しますが、一つのセンターをつくろうとしている。 だから、頭のなかのアイデアが実践で得られるかどうかが今、試されていると思っていて、それを見てくれれば、なにか統合の本質が見えるんじゃないかな。 そして、それがほんものの教育じゃないかなというふうに思っています。
暗黙知というのは、問題を透察するっていうのは、明らかな問題は、それはもう問題じゃないです。 だけど、何かあるぞと思いながら、心が何かいろいろ揺れ動く中で、一貫性のあるものに到達するプロセスを、彼、ポランニーは暗黙知と呼ぼうとしている。 で、その精神の動きっていうのは、実は、芸術作品を追体験的に理解することに非常に近い。 作品を理解すること、その時は、作品を作った人の心まで理解できている。 ポランニーは、それは芸術のみならず、人間を理解する時も同じであって、自然科学では技の理解、あるいは、名医が病人を診断する時、全てに使える。 それが、創発の本質であると、いっている。
これまでの西洋科学は、「要素還元論」で、私が主張していきたいのは、つまり、「生命が、生命を使って、生命を理解する」っていうのは、「生命還元論」。 何か、生命の基本的なモデルに還元する事によって、生命っていうのを理解していくような新しい学問が今は必要だと思うわけです。 どういうことかというと、例えば、学習なんですが、脳波を撮った時、それを別のものに還元して理解するというんじゃなくて、生命を生命で理解するんだったら、心理学で学習をするってことがあっていいんじゃないか。 具体的にいいますと、外国に行くとよく見かけますが、節水するため、ホテルで連泊をする時ですね、その時、二日目もこの同じタオル使いますか、どうですかっていうやつです。 そのキャンペーンの方法として、一つは「環境保全、水を大切にするため」、二つ目は「ホテルにご協力ください」、三つ目は「ほかのお客様にもご協力いただいています」と。 で、1番目と2番めでは、30%ぐらいしか協力しないんです。 しかし、数字はでたらめですが三つ目「当ホテルのお客様の75%の方にご協力いただいています」というと、その瞬間に何と50% が協力をするんです。 つまり、われわれが次に何をやるかっていうのは、自分の意志ではなくて、周りが何をやっているかを見ながら自分の意思決定をしている。
これ、心理学です。 学習して何かを学ばないと伝達することも難しいんです。 同じことは、これ、人でいえることは、動物でもいえるんですよ。 例えば、2匹のチンパンジーに何か課題を与えて、できたら、一方にはキュウリ、もう一匹にはブドウを与える。 それで、2回、3回、4回と続けていると、ブドウの方がおいしいので、キュウリをもらっているチンパンジーは課題を放棄するんですね。 これが心理学。 人間で起こることは、動物でも同じ現象を見て取ることができる。
そう思うと、道徳性の起源というのは、コミュニティーをいかにアレンジするか、いかに組織化するかによって道徳性が生まれる。 個人の人格ではなくて、コミュニティー全体として醸し出されるわけです。 これが、最初の頃にお話しした「勢」みたいなもんです。 布陣をどう置くかで、その組織のあり方が全部決まってしまう。
ぼくが、これをやったのは、「種の起源」をがん理論の書として読むということです。 これが生命を用いて生命を理解するということです。 ダーウインは、ものすごい分厚い本を書きました。 「種の起源」を「種の起源」の本として読むのでは、ダーウインの推理にしかなりません。 でも、ダーウインを超えるためには、その本、同じ本を読むんですが、それではできない。 例えば、がんの理論として読むと「新しい種が生まれる」っていうのは「ああ、正常な組織からがん細胞が生まれる」と思えば、スケールは違うが、そこに書かれていることが全て利用できちゃうんですね。 論文がいくつも書けちゃう。 信じられないことですが…。 西田哲学で精神病理学を理解する、これは、本学の名誉教授の木村敏先生がおやりになったことですよ。 で、今西錦司先生は「生物の世界」。 要するに西洋科学では、この図のように、主体が客体をコントロールしていると思い込むんですが、実は、客体にとっても、相手が生物であれば、同じことを考えるんですね。 ですから、どっちが主で、どっちが従かは、話が変わってしまう。 だから、今西さんは、サルの世界に降りて行って、自分がサルと同じような生活をしなさい。 個別認識とか長期観察をする時は、外からではなく、内部の視点を持ちなさい、とおっしゃった。 ですから、今までお話していることは、全部つながるんですね。
ぼくは、もう10年以上にわたって、高校生を延べ1千人以上教えています。 画面にあるように、これを証明しなさいというと、計算をし出すんですね。 それで、「あなた、それは同じことを繰り返しているんじゃないですか。 頭を使ってないでしょう。 自分の弟や妹にわかるように説明してみてください」っていうと、5分から10分、沈黙なんです。 それで、実は、ここで、アブダクションっていうか、同じことを違って表現するということの重要性を、こうやって図で示せるっていうところまでたどり着く人は、10分経って、40人中一人か二人ぐらいしかいません。 いかに、ほんとうに理解しているってどういうことか、それがいかに大切かがわかると思うんですが…。
試練をチャンス、先ほど大野さんがおっしゃったことと同じなんですが、失敗をいかに利用するかという観点です。 その、自分たちのものの見方を変えることによって、苦悩、実際に受ける苦悩ってのが引き算になる。 自分がその対象を、どう見るかによって引き算になる。 そのからくりっていうのは、例えば神経細胞のフィードバックがあって、刺激がそのまま、身体、あるいは精神に働くんじゃなくてフィードバックされて、加減されますよね。 これは、がんの教科書から取った図なんですが、細胞ががん化していく時には、外からくるシグナルを再解釈するんですよ。 そうすると、正常な細胞が勝手にがん化してしまう。 だから、こういうことは人間もやればできると思うのです。
何が大事かというと、資源が有限なのは当たり前。 だから、自分のものの見方っていうか認識の仕方をどんどん変えると、変えるだけ、いろんな可能性が生まれて、ゼロサム、みんな足してゼロではなく、ポジティブさで、みんなが勝ち組になるような互恵関係を享受する豊かな世界を創ろうではありませんかということなんです。 ですから、「何を学ぶか?」「何を悩むか?」「何を達成したのか?」ではなく、「いかに学ぶか?」「いかに悩むか?」「いかに達成したか?」、「HOW―いかに」に着目することで、同じ条件でも全然違って世界を生きることができるようになる。
えっと、この図は、セロトニンの分子構造。 セロトニンは、神経伝達物質の一つとしてよく知られていますが、ちょっと、この音が聞こえるでしょうか。 これは、セロトニンの分子の音です。 ぼくの研究ではなく、三菱化学と理化学研究所の共同プロジェクトで、計算シミュレーションで出てきた分子の莫大なデータを、可聴化(ソニフィケーション)したものです。 ぼくたちは、対象を理解するというと、すぐに見るとか観察とかを考えてしまいます。 でも、これからは、あらゆる五感を使った認識の仕方の科学というのも、求められるのではないかと思っています。 ですから、セロトニンを、「C10H12N2O」という化学式で理解するというのとは違った理解の仕方ということが出てくると思うのですが、さらに不思議なのは、そのプロジェクトの人たちがやっていて気づいたことで、セロトニンではありませんが、オキストシンという物質のサウンドを聞いたり演奏していると、そのホルモンの影響が生理学的に出てしまうと言うんです。 ホルモンを投与されることと相同のことが起こってしまう。 これは、まだ、証明されていませんで、音楽療法とかへの応用を考えていくには、これからの研究課題になりますけれども、でも、統合創造学というのは、まさに、こういう遊びというか、楽しみですよね。 みんなが興奮するようなことをやっていく余地がいっぱいある。
画面は「ランナーズ・ハイ」ですね。 運動すると気持ちよくなるのはセロトニンが出るわけですけど、昔からよく言われていて、最近わかってきたのは「ヘルパーズ・ハイ」。 人に親切にしてあげると、する方も、される方も、そしてそれを見ている人たちもハイ状態になっていく。 これの原因はミラーニューロン。 相手が運動しているのを見ると、見ている自分の運動脳が活性化されるっていうのが最初に発見されたのですが、それだけでなく、相手に思いやりを持った行為をとると、ミラーニューロンの働きで、同じようなことが起こるということもわかってきたわけです。 これまさに、現代最先端の神経生理学、そういうのをはっきり意識して、研究とか展開をしていく必要がある。
最初のハンコック銀行が見事に立ち直った話の、思いやりの背景には、こういう分子メカニズムが働いていたのではないか。 ですから、企業も人間も同じではないか。 ここに、「世界でいちばん大切にしたい会社」という面白い本がありまして、これ、過去3年、5年、10年、15年と、利益をあげた会社で、まあ、よく知られている優良企業。 こちらは、全体の平均、こちらは、セレクトした優良企業。 多少パーセントは上がっています。 200%弱。 ですが、途中マイナスの期間もあります。 これに対して、「心―思いやり」を大切にする企業を選びますと、こうなる。 ほかの企業に比べ10倍近い累積黒字です。 しかも、マイナスの時期が全然ない。 ですから、儲けようと思って儲かるんじゃなくて、「プリンシプル」として、みんなの幸せになるような「おもいやり」を発散させるだけで、企業の業績が全然変わるという素晴らしいデータです。
「レジリエンス」といって、要するに、「回復力」、「失敗にめげない回復力」ということなんですが、最近よく聞く言葉です。 それは、まさに、個人レベルでも、企業レベルでも、あるいは、コミュニティーレベルでも使われ、経済学者も「共感の経済学」と言ったりしますが、こういうことが言われる時代に今なってきた。 一昔前なら「あれ?」って言われたかもしれない。 動物にしても、この思いやりっていうのがすごく強調される時代になってきています。
一方、日本では、古くからいろいろいわれていて、まさに「梅棹忠夫の時代」、「発想法」とかいわれたことがあって、彼らが、編み出した発想法というのは、まさに、知識をどう組み合わせて新しい創造性に結びつけるか。 その知識の配置の仕方は、カードで分類するんですが、これは、最初にお話した「勢」を研究したフランスの研究者と同じですよ。 最初に、どう配置するかで、その後は決まってしまいます。 知識も、どう配置するかで、もう、ストーリーができてしまうのです。 彼らが、実際そう書いている。 しかも、その知識の要素を、人間に置き換えると、コミュニティーをどう組織立ててつくっていくかということに、つまり、組織論の理論に置き換わるよ、と言っている。 これ、とっても大事なことです。
同じようなことを、構造主義という形でジャン・ピアジェは言っていて、構造主義というのは、ある基盤的要素さえあれば、「創発」されてくる。 つかもうと思ってもつかめない。 創発だから。 だけど、実際ある、と。 まさに「勢」の概念とつながるものです。 ですから、「帰納」とか「演繹」とかで理解しようという世界はもはや狭すぎて。 主体と客体が行きつ戻りつ、つながり、創発される。 視点自体がメタ(超越)化される。 あるいは、対象がメタ化される。 それによって、自分も対象も、創発されるシステムから現在を見るのでよく分かる。 さらに、自分たちは、外界ともいろいろな情報交換があるので、その間にも創発しますよね。 そうすると、一つこういうユニットがあれば、どんどんどんどん構造が作られてくる。 これが構造主義であったり、発想法と呼ばれたわけです。
これは1年前に出したスライドですが、いかなる要素から出発しても、その要素のコピーとコピーを失敗したものとの対立が起こる。 でも、どっかで統合しなきゃいけない。 だけど、統合のためにコピーしようとすると、必ず、失敗が起こる。 その繰り返しです。 大事なことは、プロセスが同じなんだけど、出てくる構造はどんどんどんどん複雑化していって、でも、入れ子構造になっているので理解はし易い。 だから、一度、配置さえできれば、後何が起こるかは予測可能。
で、この構造とこの構造は、スケールは違うけどまったく同じです。 そうすると、マクロの構造で見えていることを、ミクロの構造に該当することもその逆もできてしまう。 ぼくが、ダーウインの「種の起源」をがんの理論として理解したことがこれです。 まさに、ダーウインの世界をミクロの世界で理解したわけです。
この全体が実は、生命であったり、進化であったり成長であったり、病気であったり、認識であるという。 これは、さらに、対になる「否定構造」がある。 これが、西田幾多郎の晩年の論理である「逆対応」。 今見ている世界を、真っ向から否定したものも、それも真ですよ、と。 ですから、西洋の客観科学が真であれば、それを、真っ向から否定する世界も真であって、ほんとの世界というのは、両方統合する必要があるでしょう、というわけです。 ですから、これ全体が実は、この始まりとまた同型だと。 曼荼羅というのは、まさにいろんな人、レベルで作られていて、われわれも日常的に触れてきています。 で、これも曼荼羅の一つですが、実は結核菌の周りを免疫細胞が取り囲んでいる状態なんです。 生態を防御するシステムが、こういう構造を作っている。 これがあると、パッと破裂すると、周りに結核の感染を撒き散らしてしまう危険性があって、しかも抗生物質は効かないんです。 なぜかというと、中に閉じ込められた結核菌は、代謝を落として死んだふりをしていて、代謝を落とす抗生物質は効かないんです。
私たちは、曼荼羅のこういう構造は、良いことにも悪いことにも使えてしまう両義性があるということを、認識する必要があります。 全体構造というのは、今見てきたように、いろんなスケールは違うけども、出てくる現象のその背後に、何か一貫性を見て取れるのではないだろうか。 一貫性があるということは、サイエンスになるんですね。 そういうことをやっていきましょうというのが、統合創造学の目標なんです。
今は、京都大学に「未来創成学国際研究センター」というのを設置しようという計画を本部に出しておりまして、3月までの予算が出ました。 どんなことをやろうとしているかというと、今までのこういうプロジェクトをセンターとして作りましょうと。 で、センターというのはどういう意味かというと、大学から予算が下りるような構造を、検討していて、2月に、研究連携基盤が大学に設置されました。 国会での予算審議がすんでいませんので、新年度以降のことは何も決まっていませんが、このクオリアとコラボしたり、場所も必要なので、同志社大学経済学部名誉教授の相見志郎さんのご自宅を使わさせていただけるような話も進んでいます。 こうやって、例えば、「京都統合創造学研究所」とか「京都学研究所」でも何でもいいのですが、そういうものにしていきたい。 何が言いたいかというと、どっかで、何かシステムが壊れても、ほかのシステムが補完できるようなシステム。 これ、まさに生命のシステムそのものなんです。 主従なんて、そんなことは関係ない。 常に、部分と全体が一体となっている、これまさに曼荼羅そのものなんです。 そういう構造を意識しながら、組織を創っていくことが学問そのものと同型であるに違いないと。
目的と理念をそこに書いておりますが、「問題は常に対立するものの境界で起こるので、ものを統合して、対立で起こる境界の問題を解決しましょう」ということです。 ノーベル賞受賞者のイリア・プリゴジンの「From Being to Becoming」という著作のタイトルの意味が、学生のころ一切わからなかった。 実はこれ、「実態」だけじゃなくて「プロセス」も見なさいということ言っているんですね。 それは、まさに「勢」を研究しなさい、「思いやり」を研究しなさい、これ実態じゃないですからね。 そして、きょう言いましたように「レジリエンス」とか「曼荼羅」とか「発想法」…。 思いやりは動物同士でもあるし、実はバクテリア同士でも手をつないで、遺伝子をやりとりするんです。 だったら、人間も手を繋がないと、動物以上にならないでしょうと。 ということで、明るい未来を創る方向に何とか進んでいきたいと思います。 どうもご静聴ありがとうございました。
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