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ワールドカフェ
毎日出会うグローバル人材の育成という言葉、島国日本のコンプレックスをそのまま表現しているようにも思えます。
ワールドカフェでは、京都としてバイオトープの機能を活かした人材育成策について話し合いました。
[ 各テーブルのまとめ ]
●第1テーブル 報告者
金子 健太郎(京都大学大学院工学研究科助教)
ぼくも熱帯魚を飼っていて、岡田先生と、熱帯魚とメダカの飼育ですっかり気が合ってしまったんですけれども、まず、岡田先生に言っていただいたように、バイオトープなのか、オート管理水槽なのか、どっちがいいかという、それぞれの利点を出しました。 で、まあ、バイオトープというのは、いろいろな要因、愛情だったり、待つことが大事とか、ノウハウがいろいろ必要っていうことなど、ネガティブな点もあるんですけども、非常にバランスのとれた池である。 いわば、日本の里山で、人がうまく自然に手を加えて美しい自然を保っているのが、バイオトープであると。 これに対して、オート管理っていうのは、魚の飼育で言うと、これは完全に、大量に増やして人に売るという、企業的なやり方なんですね。 ノウハウがあるから、誰が飼っても成功する。 しかし、これの欠点としては、金太郎飴的で珍しい魚は増やせないのです。
では、どっちがいいかというと、これ、ぼくと岡田先生のまあ、極論なんですけど、京都大学という観点で言うと、バイオトープの方がいいんじゃないか。 やっぱり、ぽっと天才の出るようなのがいいし、バイオトープの方が安定した場で住み心地がいい。 一方オート管理は、魚が多すぎて、住みにくい。 これは、京都にも当てはまることで、応仁の乱以後は、かき乱されていない都市なので、それは、バイオトープが成立してるんじゃないかなということになりました。 すばらしいベンチャー企業がたくさんあるのも、そのせいかなと話しました。
●第2テーブル 報告者 榎堀 智 (堀場製作所海外営業部 環境・プロセスチーム)
結論は、京都でいこう、です。 あれ、ちょっと先に言ってしまいましたが、えーっとですね、まず、京都が持つものってのは、まず何なのかということを話しました。 職人さんの誇りとか、欧米に屈することなく、自信を持ってやっていくこととか、京都は日本の中心ではないのか、京野菜は日本のブランドだとかいろいろ話しました。
その後に、外国で活躍できる人はどんな人かということも話しました。 それについては、現地のノウハウを知っている人、それに、言葉というものが非常に大切であると。 言葉はツールである一方、文化を体現している。 なので、言葉を話せるというのは非常に重要なのだという話もしていきました。 この中で、もう一つ出てきたのは、現地の人に負けない自信を持つ。 現地に行って、現地の文化を知って、現地の人に負けない自信を持った時に、初めて自分が現地の人よりも詳しくなったその国で働ける人になるという話になりまして、そこからアイデンティティーの話に展開していきました。 じゃあ、アイデンティティーはどういうものなのか、例えば京都は京都でいいとか。 そして、それはどうやって伝えられるのか、自然に生まれるのか、親から与えられたものなのか、環境のものなのか、教育なのか、ということを議論したんですね。 で、こういったアイデンティティーということと「京都で行こう」というのはつながっていまして、京都というアイデンティティー、京都という誇り、そういったものをもって現地のことを知る、そういう人間が、グローバルで活躍できる人間ではないか。
最後に、日本人として海外で働くというのはどういうことかということを話し合いました。 それで、自分自身、自己実現のためにだけに働くのではなく、日本のため、世界のために働くという思い、パッションをもって働いていくことが重要で、これを京都から発信していこう、という結論になったわけです。
●第3テーブル 報告者 上田 源 (同志社大学学生)
私の班は、私のせいで文学的な話に終始しまして、与えられたテーマをちゃんと話し合うことがなく終わってしまいました。 その中で、一つ面白い話が山口先生の話の中でありましたので、それを紹介させていただきたいと思います。 それは三島由紀夫という人間と村上春樹という人間は基本的に天才である、という感じなんですね。 ただ、三島と村上の一番違っている部分は、三島は演劇的であり、村上は創発的であるという考え方です。 三島が演劇的であるというのは、どういことかというと、いわゆる、明治、大正、昭和期の全ての文学的な技法を取り込んで書かれたのが、私の考えでは「金閣寺」という最大傑作なんですけども、三島は昭和までの傑作である。 村上春樹は、平成の世になって、演劇から創発的な部分を作り上げた人間だという話なんですね。 三島というものは、論文で批判されることは殆どないです。 文学的論文の中でも相当評価が高いんですね。 一方、新しいものを作り出したがゆえに、村上は、基本的に賛否両論の中に生きている人間なんですね。 でも、否定をされながらも、自分の文学を貫いている村上春樹というのはすばらしいと思っております。
それから、さっきの先生方のスピーチを勝手にまとめさせていただいたんですけれども、木に例えさせていただいたんです。 まず幹があります。 それは、研究者ならば自分の研究分野、日本人なら日本人というアイデンティティーなんです。 で、そこから枝葉を伸ばすということです。 他分野、他国というところに枝葉を伸ばしていくことによって、光合成をする面積が広がリますよね。 そうなれば、より幹が太くなっていくんじゃないかと思ったんですね。 その枝葉を伸ばすか伸ばさないかという考え方の中心は好奇心だと思うんですよ。 この好奇心を中心点に考えた際に、学問と学習の差という部分をもう少し考えないといけないと思うんですね。 小中高校までは、習えばいい。 おぼえればそれで、大学には入れた。 しかし、学問となった途端、最先端になった瞬間、何かを問わなければいけないんですね。 何かと問うて、そこに好奇心を持たせられるか持たせられないかっていうことが、その教育というものの中心線にあるんではないかなと思います。 好奇心を伸ばしてもらえるような教育が大事だと思うんです。
それから、田中角栄と鳩山由紀夫という総理大臣の話なんです。 小学校しか出てなくて英語の喋れない田中と成績、家柄とも超エリートの鳩山ですが、海外との交渉で田中は成功し、鳩山は失敗している。 これ、何故かと言うと、田中は日本を中心に考え、鳩山は西洋を中心にものを考えたからではないか、と。 もっとも、単純に才能の差だという話もありますが…。
●第4テーブル 報告者 川角 育代 (若王子倶楽部左右)
京都が22世紀まで「バイオトープ」であり続けるにはどうしたらいいか、を話し合いました。 堀場先生がいらしゃいましたので、そちらを中心に話していきたいと思います、堀場先生は「京都に住んでる人が、京都の偉大さを知ってることがまず大事だ」とお話になりました。 特に話題になったのは、京都で培われてきた伝統産業、伝統文化は、そのまま、今のハイテク技術であり続けている。 例えば、仏具の技術が金属加工の技術につながっていったり、鏡を磨く技術がCDに使われたりとか、ローテクとハイテクが常に一体になり、進化し続けているのが京都の特色ということです。 また、産学連携ですとか、お茶、禅というソフトも充実している。
それともう一つは、下宿のおばさんとか芸妓さんら花街の方が、若い人の教育という役割をになっていたという京都独特の文化についての話も出ました。 出世払いを許し、揉め事をとりなし、懐広く京都全体で若者を育ててきた。 京都は、このように充電できる場として充実していた。 例えば、昔から京都には、「しるこう」という、このワールドカフェのようなものがあり、いろんな考えを持つ人が集まりワイワイやって、身分、ジャンルを越えて情報を発信してきた。 この充電したものを発信し続けることで、京都はいつまでも「知のバイオトープ」であり続けられるのではないか、という結論になりました。
髙田 公理 (佛教大学社会学部教授)
きょう、堀場さん90にもなって何であんな元気なんかと考えてたんですよ。 彼は、大学を卒業してから1回も教育を受けてない。 ずーっと文化をやってきはったんですよ。 さっきね、上田さんが、学問と学習を比較したんですけど、これは、もっと、えげつない比較をすると、教育と文化というふうに言い直したほうがいいかもしれない。 教育というのは充電なんですよ。 電池に充電するのが教育です。 充電したら、人間の体、心の中にいろんなエネルギーが出てくるんで、外に向けて放電しんかったらバランスが取れへん。 充電したものを放電する、これほど気持ちええことないんですね。 堀場さんは、ずっと放電し続けてはるんです。 実は、日本中が、「教育神経症」になって充電、充電を始めてているわけでしょう。 これ、必ず過充電になって電池爆発するわけです。 それを、放電する役割を京都が担おうというわけです。 これが彼女の言おうとしたことだと思います。 しるこうです。
クオリアAGORA事務局
みなさん、京都への期待を熱く語っていただきました。 最後にスピーカーとして参加いただいた岡田さんに一言お願いしたいと思います。
岡田 暁生 (京都大学人文科学研究所教授)
初めてこの場にお招きいただきまして、最初から最後まで感動していました。
最後だったということもありますが、「教育神経症」というのが一番印象に残りました。 きょうの話の締めくくりにふさわしい言葉だと思いました。 つまり、みんな学校の中に長いことい過ぎるんですね。 もうさっさと学校やめなさい。 学校で、問題をひとに与えてもらうという状況に慣れすぎてはいけない。 問題っていうのは、自分で発見する。
それが、学校を卒業する道であるということですね。 問題発見能力を身につけるっていうことが、大学の最高の義務であるはずなんですね。 学校的な生き方を卒業することは、すぐできるわけじゃなくて、やっぱり、一定期間が必要で、そのためにも、ぼくは、大学は5、6年ほしいなと思うわけですけれども、今は、どんどんどんどん上にプログラム積み重ねていって、まさに教育神経症にかかっているわけです。 この教育神経症を治癒しよう、あるいは、「子捨て」。 大胆な表現ですけど、子どもは捨てようなどなど、教育再生のキーワードであったかと思います。
それから、もう一つは我田引水ですけども、バイオトープ的な見方というのが、京都には向いているんちゃうかという気がしてしょうがないですね。 京都が、一元管理水槽的なことやり始めたって、東京や大阪に勝てるわけはないんであって、そうなると、二流、三流の東京になってしまって終わりなんじゃないか。 ただし、東京発信の官僚文化というのは、容赦なくありとあらゆるバイオトープを見つけて、これは整理整頓して、区画整理して更地にしなさいみたいなこと言うてきますから。 だから、何ていうか、バイオトープ的なものを実は守りつつ、面従腹背で、なんか管理水槽にあわせているような顔をするという二枚舌っちゅうのがこれからいるんやろうなと思って、気が重くなります。 ただ、この二枚舌、よく考えたら、昔から、京都人の得意技だったかもしれない。 平安の昔から、権力者に対して、表向きそれに合わせているような顔をしながら、全然裏では違うことを考えて、自分たちのやり方は全然変えない、まあ、平安の昔からの京都の人間の得意技だったと考えると、少しは気の重さも楽になるという気がしております。
クオリアAGORA事務局
ありがとうございました。 京都こそ、次の時代のことを考えてバイオトープになろうという一つのキャッチをいただきました。
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